箱根湯本から宮ノ下、小涌谷をへて芦ノ湖へとつながる国道一号線は太古の昔から箱根越えの街道として栄えた道であり、現在は道路もすっかり整備されて初夏の風を全身に浴びながら原付で駆け抜けていく。
この道は土休日ともなれば観光の車で大いに賑わうのであろうが、平日休みの利点はこのようにどこに行っても空いていることでもあるし、この近辺は土日は二輪車通行止めとなる区間もあるものの、平日は自由に通行できるという点でも素晴らしい。
やがて、国道1号線の脇には茶色く濁った池が見えてくる。
これを精進が池といって、この近くは箱根越えの旧道として多く使われ、またこれから足を踏み入れる地獄の様相の山々に備えて多くの磨崖仏などが作られ信仰の対象となったのは、過去にも紹介したとおりである。
この精進が池のほとり、北の端の国道1号線沿いには高さ2.5メートルを計る、三基の大きな五輪塔が残されているのを見ることができるが、このうち左側の2基は曽我兄弟の墓、右の1基は虎御前の墓と伝えられているのである。
このうち虎御前の墓は永仁3年(1295年)の銘文があり、この地域の地蔵講中によって建てられたということが分かっているということから、この五輪塔もこの地域に多く残された地蔵尊の磨崖仏信仰に根差したものなのかもしれない。
曾我兄弟というのは、建久4年(1193年)に曾我祐成(すけなり)と曾我時致(ときむね)の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事により、赤穂浪士の討ち入り・伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの主人公とされている兄弟である。
所領争いが発端となったことで父を殺された兄弟は、厳しいの生活の中でも決して仇討ちを忘れず、時には仇敵である工藤祐経に諭されながらも、見事仇討ちを果たしたことで後世に名を残すこととなった。
このあたりの物語まで書くと長くなるので詳細は検索して頂きたいのであるが、この物語は後世になって「曽我物語」として話にまとめられ、江戸時代には能や浄瑠璃、歌舞伎などで定番の演目となった人気ぶりであった。
また、虎御前というのはもともと大磯にいた遊女であった。
兄の曾我祐成の妾であったため事件のあとに捕らえられるが、罪は無きとして放免されると箱根で曾我祐成の供養に専念し、19歳の時に曾我祐成の愛馬を携えて信濃善光寺に出家したとされる。
実は曾我兄弟の墓とされているものは全国に14か所を数え、横浜市の願成寺の無縁仏の脇に置かれていたり、小田原の城前寺、二宮町の知足寺、静岡県富士宮市の曽我八幡宮の東側の丘の上などと枚挙にいとまがないのが実情である。
一説によれば忠臣蔵で有名な大石内蔵助は、この曾我兄弟の墓石についていた苔をお守りとして持ち歩いていたという。
このような逸話に、当時の武士の生きざまが見えてくるような気がするのである。
いま、精進が池から曾我兄弟の墓に続く獣道には人影もなく寂しいところであるが、かつてこの道を多くの旅人が行き交い、また仇討ちに信念を燃やす曾我兄弟や大石内蔵助も歩いたかもしれない事を思うとき、このような無名の道にもしっかりとした歴史の痕跡が残されていることを思い知らされるのである。