みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

遠く離れた横浜で事故に見舞われた ナチスドイツの海軍将兵たち(横浜市中区)

横浜の外人墓地といったら、主に山手外国人墓地と根岸外国人墓地がある。

 

山手外国人墓地は「港の見える丘公園」や「アメリカ山公園」、「水屋敷」などからも近く、綺麗に整備されて観光名所にもなっているものの、根岸外国人墓地の方はうっそうとした木々に覆われて訪れる人も少なく、その独特で陰鬱な雰囲気がもの悲しさをあらわしている。

 

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墓地はだれでも自由にお参りすることができるが、案内書きに促されるままに正門左手の小さな扉を開けて入ると、落ち葉が散らかったままで管理人室には誰もいない。

 

入口を入ってすぐにトイレへの案内板があるが、トイレに行こうと入って行っても物置しか置かれておらず、どうにも丁寧に管理されている感じはしないのが、実に物寂しい。

 

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また、入り口から墓地の中に歩みを進めていくと、すぐ右手には「慰霊」とだけ陰刻されたオブジェが建っているが、これは戦後に進駐軍兵士の残していった哀れな嬰児たちの慰霊碑であり、こちらについては別の記事で紹介する予定である。

 

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そのオブジェの向かいには、オベリスク様の慰霊碑が建立され、今なお誰かが献花に訪れているようである。

 

これこそが昭和17年(1942年)に横浜港を惨禍の海に沈めた「横浜港ドイツ軍艦爆発事件」の犠牲者たちの慰霊碑なのである。

 

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時は昭和17年、日本とナチス・ドイツファシスト・イタリアが同盟を結んで連合国軍との血で血を洗う戦闘を続けていた時期であった。

 

現在の新港埠頭に停泊していたドイツの高速タンカー「ウッカーマルク」が大爆発を起こした。

昭和17年11月30日の事である。

 

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 (1940年代初期、ノルウェー、イェッシングフィヨルド

 

「ウッカーマルク」は、ドイツのキール軍港を起点として連合国軍の海上警備をかいくぐり、当時日本が制海権を握っていたインド洋を通じて日本軍のシンガポール基地などを巡りながら横浜に停泊していた。

 

同船は、この1週間ほど前にも日本軍占領下のインドネシアより、日本陸軍航空隊に供する航空燃料を横浜港に運び込んだ際、大桟橋埠頭で油槽を清掃しているさなかに大爆発を起こしていたのである。

 

これらの事故により、「ウッカーマルク」はもちろんのこと、その近くに停泊していたドイツ海軍の仮装巡洋艦「トール」(下写真)と、トールに拿捕されて係留されていたオーストラリア船籍の客船「ナンキン」(拿捕後「ロイテン」と改名)、中村汽船所有の海軍徴用船「第三雲海丸」の合計4隻が廃船となり、横浜港そのものも爆発により甚大な被害を受けたのだという。

 

 

これによる死者はドイツ海軍の将兵61人、中国人労働者36人、日本人労働者や住人など5人の合計102名を数え、重軽傷者にあっては周辺住民や労働者はもとより、ドイツ海軍艦船を見学に来ていたドイツ大使館員エルヴィン・ヴィッケルトなども負傷するなど、まさに「阿鼻叫喚の修羅地獄」と呼ばれる惨状であったという。

 

そのうちドイツ海軍将兵など外国籍者はこの外国人墓地に埋葬された。

後年の平成6年(1994年)になってドイツ海軍将兵61名の犠牲を追悼するべく、ドイツ大使館と横浜山手ライオンズクラブの連名により建設されたのがこの慰霊碑なのである。

 

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爆発の原因は決定打となる証拠はなく、また戦時中の軍艦の事故ということで最高機密として扱われたこともあり、現在でも明らかにはなっていない。

 

ただ有力な仮説は目撃者の証言から、ウッカーマルクの油槽の清掃作業中の作業員の喫煙が原因ではないかと言われている。

 

ドイツ軍将兵は生き残ったものもおり、将校数名は帰国したというが、運悪く取り残されたドイツ軍将兵は戦局が悪化していくにつれて帰国することもかなわなくなった。

 

結局はそのまま箱根の芦之湯温泉の旅館を貸切にして暮らし、防火用に阿字ヶ池と呼ばれる池を掘ったりしながら終戦まで過ごしたという。

 

その後、大戦終結後にGHQによりドイツに送還されたというが、ドイツ人将兵の箱根で過ごす日の不安たるや、いかばかりであったろうか。

 

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現在でも、この慰霊碑の前では地元の仲尾台中学校や立野小学校の生徒たちも招いて11月に慰霊祭が行われているという。

 

ドイツの首都ベルリンから9000キロ近く離れた横浜で、突如訪れた非業の死を遂げ、また生き残ってもいつ帰れるかと不安に駆られながらの箱根での日々。

 

彼らは積極的に草むしりや防火活動、防火用ため池などの建設に力を入れていたというが、帰国への不安をいっときでも忘れるために、何か一心不乱に取り組める作業が必要だったのだろう。

 

遠く言葉も通じない異国で、しかも自らの意思ではなく「命令」によってやって来ながら、そこで命を落とし、また暮らさなければならなかった将兵たち。

 

いま、この慰霊碑の前で静かに手を合わせると、晩秋に積もった落ち葉がカサカサと揺れ動く声のみが聞こえ、まるで死者の無念を代弁してきているかのようで、一抹の悲哀を感じるのである。