人が生きていくうえで、ありとあらゆる生物が生きていく上で欠かせないもののうちの一つに、水があります。
それは神奈川県に住む905万人にとっても例外ではないのですが、その県民の暮らしを支える「水がめ」のひとつに、相模ダムによって作られた人造湖、「相模ダム」があります。
この相模ダムによって作られた相模湖は昭和22年(1947年)の相模ダム完成を皮切りに、戦後としては日本初のダム湖でした。
人造湖に対して「○○湖」という名をつけたのも、日本では相模湖が最初です。
完成後70年をゆうに越える長い歳月の中、今なお横浜市をはじめ、川崎市や相模原市などへの上水道として市民の生活を支えるのみならず、京浜工業地帯への工業用水や水力発電の要として日本の工業力を、灌漑用水として日本の農業力を支えてきた大切な湖なのです。
この相模ダムのほとりの道筋に、古代エジプトのオベリスクのような形をした慰霊塔が立っているのを見る事が出来ます。
これこそが、現代の日本を支え、神奈川県を支えている相模ダムの建設工事における殉職者たちを慰める慰霊碑なのです。
このダムが完成したのは先ほども書いたように昭和22年、大東亜戦争が終わってすぐのことです。
建設開始そのものは昭和16年(1941年)、大東亜戦争が開戦した年で、海軍基地と海軍工廠、造船所がある横須賀や京浜工業地帯への用水を確保するべく、多くの朝鮮人や中国人を含めた労働者延べ360万人が投入されたといいます。
実際、この慰霊碑の裏面に刻まれた方々の名前には、それと思しき名前も散見されます。
その結果、現在の記録に残っているだけでも83人が殉職され、今なお毎年7月末には地元の方々によって慰霊祭が行われているという事です。
この慰霊碑は、地元有志の請願によって平成5年(1993年)の10月に神奈川県によって建立されたものです。
今なお、70年以上も前の歴史に暗い影が見え隠れしていますが、少なくとも数百万人を越える多くの方々と、少なくとも83名を数える方々の犠牲があって、今のわれわれ神奈川県民の生活が成り立っているのです。
これは慰霊碑ですから、亡くなった方を祀ったもので、工事中の事故によって手足を失うなどの大怪我をされ、人生が変わってしまった人も当然たくさんいたのではないかと思いますが、そういった人たちに関しては記録がありません。
現代、私たち日本国民は蛇口をひねればいつでも水が出て、しかもいくらでも飲むことができるという生活が当たり前になっていますが、これは決して当たり前の事ではなく、世界に目を向ければ今なお頭に水ガメをのせ、一杯の水を求めて毎日何キロも歩く子供たちもいる事を忘れてはならないと思います。
いま、この相模湖の湖畔に立つ慰霊碑に手を合わせて、遥か丹沢山塊のなかに浮かぶようにしてある相模湖の湖面を眺めるとき、毎日新鮮な水を頂ける喜びと幸福をしみじみと噛み締めたのです。