令和2年7月30日、台湾の李登輝前総統が亡くなりました。
海外の国家元首を経験した方としては、みうけんが敬愛する数少ないうちのお一人です。
随分とお年を召されていたようですし、いつかは訪れるお別れの時がくるのは仕方のないことですが、誠に残念な事です。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
さて、これを機会に、今回は時代の流れに忘れ去られようとしている台湾と神奈川との深い繋がりを紹介したいと思います。
小田急線と相鉄線のターミナルである大和駅から北西に1キロあまりいくと、東名高速道路の大和トンネルがあり、そのすぐわきにあるのが净土真宗大谷派寺院で、東本願寺の末寺である草柳山(又は沢柳山)善徳寺です。
このお寺には大和市の指定重要文化財である、室町時代に造られたといわれる銅製の「誕生釈迦仏立像」があります。
なかなか広く、手入れも行き届いた清々しい境内ですが、その傍らには花壇の片隅に建てられるようにして慰霊碑が建っています。
これは「太平洋戦争 戦没台湾少年の慰霊碑」と陰刻されたもので、この付近にあった高座海軍工廠で勤務していた、18才から20才という若き台湾出身の少年たち8400余名の海軍工員たちのうち、病や空襲によって命を落とした人たちを慰めるために建立されたものです。
高座海軍工廠で女子挺身隊員として、台湾少年工と一緒に働いていた伊勢原市在住の佐野た香さん(高座日台の会 会長)のお話によれば、この慰霊碑を建てられたのは、高座海軍工廠の海軍技手として働かれていた故早川金次氏です。
早川氏は当時、台湾少年工と親しく接して共に働いておられたということです。
手記によれば、高座海軍工廠には職員、工員および動員学徒隊、女子挺身隊など1万人を超える方々が日本軍の戦闘機「雷電」の生産をされていたという事です。
雷電は、当時日本を脅かしていたアメリカ軍のB29戦略爆撃機を迎撃するために活用された戦闘機です。
その1万人のうち、台湾から来日した少年たちが8400名と、大部分を占めていたといいます。
この台湾人少年工の方々も、空襲の被害者として記録されています。
早川金次氏の手記によれば、太平洋戦争末期、日増しに厳しくなる戦局の中で、また日々乏しくなる物資の中で、日本全国の軍需工場は米軍機の爆撃にさらされ、日夜甚大な被害を受けておりました。
しかし、なぜか高座海軍工廠は、ただの1度も爆撃や焼夷弾攻撃を受けた事がなかったそうです。
首都防衛の第一線である厚木基地に隣接していただけではなく、戦闘機を生産していたのは米軍も知っていたはずです。
もしかすると、米軍に何らかの戦略的な意図があったのかも知れません。
誰も、終戦が近づいている事など想像だにしなかった昭和20年7月30日のことです。
この日も、毎日のように鳴り響く空襲警報で作業は度々中断し、作業員たちは防空壕に避難していました。
やがて何事もなく警報が解除され、台湾の少年たちが「腹減った」と防空壕から飛び出して広場を駆け、食堂へ走った時のことです。
たまたま上空を通りかかった米軍の戦闘機が、一斉に広場を走る工員たちを見つけて急降下を開始し、あろうことか機銃掃射の銃弾を浴びせかけ、台湾人の少年5名が犠牲になったのです。
早川金次氏はその一部始終を目撃し、終戦後も忘れる事が出来なかったために、戦後18年を経た昭和38年11月、ついに大和の善徳寺に「戦没台湾少年之慰霊碑」 を建立したという事です。
碑の前にある銘文には、「異郷に散華せる少年を想うとき18年後の今日、涙また新たなり」と刻まれ、早川金次氏の無念さがしみじみと伝わってくるかのようです。
このようにして日本に多く来ていた台湾人の少年工たちは、国民学校高等科2年を修了したのみならず、当時は難関とされた選抜試験に見事合格した、優秀な15才前後の少年たちでした。
日本で一定の学習と実習を行うことで、中学校卒業の資格が付与されたのです。
しかし、日を追って戦局が悪化するにつれ、勉学どころではなくなって工場等に動員されたのです。これは日本人、台湾人、朝鮮人と区別のない事でした。
しかし、歯を食いしばって耐え忍んだ日々もむなしく、日本は敗戦の憂き目に遭います。
当時、少年工と呼ばれていた若者たちも、もし今も御存命であれば軽く90歳を越えていらっしゃることでしょう。
結局、帰国された台湾人少年工の方々のその後の消息はようとしてしれず、高座を偲んで来日された方々も数百人ほどだったそうです。
台湾人少年たちは戦後の混乱の中を必死に生き抜き、数多の艱難辛苦を乗り越えて帰国を果たし、その時に培った知識と技術を活かして近代台湾の建設に力を注いだのです。
しかし、当初約束されていたはずの中学校卒業の資格付与などは、戦後の混乱に紛れてしまったままとなっていました。
これに心を痛めた野口氏と佐野氏は、国と政府を相手に交渉に交渉を重ねた結果、約束を果したということです。
この誠を尽した事により、台湾の少年工たちとの心の交流は一層堅固なものになっていったそうです。
また、ここから少し原付を走らせた引地川の近くには、公園の中にひっそりと台湾風の東屋が建てられています。
この時期ともなるとヤブ蚊がすごいので、ここで休憩する人はあまりいないようですが、この東屋は「台湾亭」と呼ばれています。
この台湾亭は、やはり台湾少年工たちが戦時中に確かに工廠に勤務し、青春の3年間を汗水の中に過ごしたことを顕彰する目的で、さらに日本と台湾との永遠の親善を願って戦後52年を経た平成9年9月、台湾人たちによる募金によって建築されたものだそうです。
戦前に少年工の小隊長をされていた大工棟梁の葵水浜氏(=当時70歳)と、息子の永吉氏(=当時33歳)の親子が中心となり、約4年間と2000万円にのぼる寄付金を費やして完成にこぎつけたそうです。 台湾亭の頂上部には金色の宝珠をいただき、緑色の屋根を支える朱塗りの6の本柱には「台湾高座会志」を詠んだ五言の詩が記されています。
台湾迎日早
湾廻得春先
高歌舒浩気
座亭看煙雲
会心堅松柏
志節勵冰霜
この台湾亭の階段の手すりの部分をよく見てみると、そこにはイカリのマークが飾られていました。これは紛れもなき高座海軍工廠のマークであり、その脇には「若き日の 夢を託した 第二の故郷」と陰刻されているのが見て取れるのです。
こうした経緯から、日本のことを「第二の故郷」と呼ぶ台湾の人たちとの心温まる交流は、絶えることなく平成の時代まで続いたということです。
いま、慰霊碑には訪れる人もほとんどなく、時折有志の手によってお掃除や献花が行われている程度です。
しかし、この小さな慰霊碑と、ヤブ蚊だらけの茂みに寂しく残された台湾亭の東屋こそが、忘れ難き日本と台湾の友好と愛情を今に伝えているのです。
私たちは平成から令和を生き抜くものとして、現在世界を脅かしているコロナ禍に負ける事なく日本と台湾を発展させ、また決してこの友好のお話を忘れずに語り継いでいかねばならないと強く感じ、ひとり静かに慰霊碑に手を合わせたのです。