みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

愛車はヤマハのシグナスX。 原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。
風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。
※いままではカタい文章の書き方でしたが、徐々に改めていきます。

主人の仇を取った 烈女「お初」の墓(平塚市)

平塚駅北口から真西に1.4キロほど行くと、住宅街の中にたたずむ松雲山 要法寺があります。

このお寺は約700年前、鎌倉幕府の執権北条泰時の次男であり、この近辺の地頭であった北条泰知の屋敷だったところです。

 

北条泰知はたいへんに熱心な念仏信者でした。

これは同じく熱心に信仰する父・北条泰時の影響にもよります。

しかし、ある時から日蓮上人の龍之口法難の話を聞いてこれにいたく感動し、それ以降は法華経日蓮上人に帰依したことから、要法寺は今でも日蓮宗の寺院として栄えています。

 

さて、今回のテーマは要法寺ではなく、その要法寺の西側、広蔵寺(廃寺)の墓地にある烈女「お初」のお墓の歴史に触れたいと思います。

  

f:id:yokohamamiuken:20201023091340j:image

  

この廃寺・広蔵寺は、「新編相模国風土記稿」の平塚宿の項によれば、すぐ近くにある春日神社の別当寺であったそうです。

神仏習合により神社にも仏教の尊格が祀られたことが多々あり、神社での仏教のおつとめをするのが別当寺であったわけですが、「新編相模国風土記稿」では広蔵寺について以下のように紹介されています。

 

(春日社の項において)

別当広蔵寺

平塚山延命院と号す。古義真言宗

淘綾郡 大磯宿 地福寺の末寺。古は範隆寺と号す。

建久三年八月、頼朝夫人安産の為に誦経を命ぜし事、東鏡に見ゆ。

今の寺号に改めし年代は詳らかならず。本尊地蔵。

 

源頼朝夫人の安産のために読経を命じられた格式のあった広蔵寺ですが、現在はすっかり失われ、わずかながら墓地が残るのみとなっています。

  

f:id:yokohamamiuken:20201023091356j:image

  

図書館で閲覧した「平塚市郷土誌事典」によると、ここに眠る烈女「お初」は本名を「おたつ」といい、平塚宿の近くに住んでいた百姓「松田久兵衛」の娘でした。

 

江戸時代中期にあたる明和年代(1764年~1772年)、治世は江戸幕府の第10代将軍徳川家治公の時代です。

この頃、江戸の御中臈(おちゅうろう。将軍や御台所=将軍夫人の世話をした、大奥の役職のひとつ)、岡本みつの住む荻野山中藩大久保長門守の江戸屋敷にてお初は奉公していました。

しかし、主人であった岡本みつは、同輩の沢野から侮辱を受けたことによって自害してしまいます。

 

これに憤慨したお初は直ちに沢野宅を訪ねて面会しました。お初は沢野に面会すると、主人岡本みつが自らの身体をかき切った懐剣を使って沢野を刺し殺し、見事主人の仇を討ったことから、それ以降「烈女」の典型として後世に名を留めることになりました。

 

この話は江戸市中でも大いに話題となり、人形浄瑠璃や歌舞伎「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」の話のヒントにもなったと言われています。

  

f:id:yokohamamiuken:20210121102909p:plain

(歌舞伎演目中の「お初」)

 

現在、廃寺の墓地の片隅にはお初の墓とされるものが残されています。

明確な観世音菩薩の立像を墓石としていただいたその両脇には、「安室貞心信女」「明和六年十月九日」と陰刻されています。

 

f:id:yokohamamiuken:20201023091352j:image

  

当時、仇討というものは社会的にも大目に見られていた時代です。

しかし、そのほとんどが男性によるもの、しかも父や兄の仇討ちなど直接の家族の仇を取るのが一般的であったといいます。

このように女性が、しかも自らの主君の仇を取るというのは珍しかったようで、大いに話題となり幕府からも賞賛され年寄となった、と伝えられています。

 

また、この墓のわきには昭和10年に建立された 「義女 松田多津顕彰碑 鏡山お初」の碑が残されています。

 

f:id:yokohamamiuken:20201023091349j:image

  

主人の仇を取った女性という勇ましい話は、なんとも当時の江戸っ子が喜びそうな話ですが、かつての日本人の中には、このような気概を持った人が本当にいたのだなぁ、と思います。

 

今の日本人とはだいぶ違っているのは当然の事ですが、これを時代の流れというのも少し寂しい気がします。

 

いま、人通りのない廃寺の墓地にひざまづき、忠義の烈女の墓前に香華を手向けて手を合わせるとき、江戸の歌舞伎座でこの演目が演じられるたびに観衆から拍手喝采を浴びた烈女「お初」の偉勲がここに蘇るかのようで、数百年の昔日もまるで昨日のことのように思い出されるのです。