三浦半島西岸の陸上自衛隊武山駐屯地から、小田和川に沿って走る道をどんどん登っていくと、やがてこんもりとした小山が見えてくるが、これはただの山ではなく三浦大介義明の子である大田和義久が築城したとと伝わっている大田和城址である。
この方角から見ると遺構は良好に残されているように見えるが、実は山の裏側にかけて社会福祉法人の巨大な建造物をわざわざこの地に作ってあるので、遺構と呼べるものは何一つないと思われ実に惜しいことである。
その大田和城址から北側にほど近い、一見して普通の住宅のような専養院というお寺がひっそりと残されている。この専養院は山号を古跡山(こせきざん)という浄土宗の寺で、現在は無住となり東漸寺の管理となっているが、その山号も城跡にちなんだものであろうか。
現在では無住となってしまったこの寺であるが、かつて江戸時代末期に願海上人という念仏行者が住んでいたことがあるという。願海上人はここを基点として、このさらに山奥にあった谷戸にこもって修行をしていたという言い伝えが残されている。
ところで、この寺には珍しい庚申塔が残されている。
三浦半島にはもともと庚申塔がものすごく多く、道を少し歩けば必ず見つけることができる。そのうちの何点かは当ブログでも紹介させて頂いたとおりである。
基本的に庚申塔は上部に日月の刻印、正面に青面金剛を据えて邪鬼を踏ませ、さらにその下に見ざる・言わざる・聞かざるの三猿をあしらうか、またはただ漢字で「庚申塔」と陰刻しただけの物が多いのであるが、この専養院の庚申塔は一面に「庚申塔」の文字が刻まれた珍しいもので、地元の人たちはこれを百庚申塔と呼んでいる。
これらの珍しい庚申塔は、江戸のころには名主を務め、明治となってからも地主として権勢を誇った浅葉家が建立したものとされている。
この浅葉家の中に「浜浅葉日記」という日記を書き残した人がいて、それによれば江戸後期から明治にかけてこの村での庚申信仰のありようが細かく記されており、60日ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の日には他村の庚申塔も含めた123体の庚申塔に1日がかりでお参りする習わしがあったという。
このことを考えれば、この専養院の百庚申塔は、数多くの庚申塔をお参りすることによって得られる数々の後利益を、一か所の参拝で済まそうとしたのではないかと考えられている。
かつて、浅葉家は3棟もの蔵を擁する富農であったが、今となってはその面影はすでになく、ただ浅葉家の屋敷があった道沿いに並べられた庚申塔が、かつての浅葉家の繁栄を懐かしむように佇んでいるにすぎない。
いま、専養院は訪れる人もあまりなく、管理もそこそこで墓地は荒れ、無縁の墓も多くなり、多くの石仏は倒れるか傾くままとなり起こしてくれる人もおらず、それでも優しそうな表情を変えることなく道行く人を見守っている。
かつて、この地に武士の誉れ高き大田和城の旗のなびきが見え、谷戸の奥からは願海上人の朗々とした読経の声が聞こえ、さらに地域の名主であった浅葉家は神仏の加護を神事でこの寺の発展に努めたことであろう。
いま、それらがすべて過去のものとなり、忘れ去られたようにひっそりと石仏たちが残り、手を合わせる人すらめっきり減った専養院や無縁の小さな墓たち、また百庚申塔を眺めるとき、今日も沈んでいく夕日の中に抗うことのできぬ時の流れのはかなさをひしひしと見せつけられて、感慨もひとしおである。