三浦半島の先端あたりを原付で走っていて、毘沙門という所に出てきました。
この毘沙門という地名は海中から毘沙門天の木像が出てきた事にちなむもので、この毘沙門天については以前にも紹介させた頂いたことがあります。
この地域のバス停「毘沙門」は1時間にバスが1本だけというのどかなところですが、このバス停のところに「毘沙門区民会館」という町内会館のような建物があります。
以前は児童会館であったそうですが、その壁には半鐘がかけられ、また墓地に囲まれていることから、かつては慈雲寺の塔頭があったところなのかな、とも思わせます。
この会館の敷地内を歩いていると、古びた墓石にまじって庚申塔が2基、馬頭観音の石塔が2基見られます。
この中でも、特に大きく目立つのが寛文8年(1668年)に造立されたといわれている板碑型の庚申塔です。
寛文8年といえば今より350年あまりのむかし、江戸幕府第4代将軍徳川家綱公の治世のころです。
この庚申塔をよく見ると、前面には庚申塔の特徴ともいえる三猿がしっかりと主張していますが、肝心の碑面はすっかりすり減って、まな板のように平らになってしまって、まったく読むことができません。
この庚申塔については、「神奈川の石仏」(1987年・松村雄介著)のなかに紹介されていましたので引用させていただきます。
それによれば、相州三浦郡 毘沙門村衆等 三十七数 毎年六度 庚申為避 三彭仇 各抽丹心摂会修 善鶏鳴為明 今当結局之辰修造 一本之石打 一心所と記載されていたことが解説されています。
つまり、「相州三浦郡・毘沙門村の住民37人は、毎年6度ある庚申の夜になると三彭(さんほう=三尸の虫のこと)の仇を避けるために、おのおのが志をもって集まった。鶏が鳴き、夜が明けるまで、行事を修めてきた。いま結願をむかえるので、石塔を一基建立する」という事なのでしょう。
また、この塔には偈頌(げじゅ・仏力を褒めたたえる経文)が刻まれていたということで、そのまま引用させていただけば
永年特別の願いごとがあって庚申の行事を行ってきたが、今日結縁に到り、果因(三彭)を滅ぼすことができた。石塔の建立も無事に終わったので、これで子孫の繁栄があらたに約束されるだろう
と、いった意味のことが述べてあるとも書かれているのです。
庚申信仰というものは、道教の教えでもともと人間の体の中に宿っている「三尸の虫(さんしのむし)」が、庚申の日の晩になると体から抜け出して閻魔大王の元へ行き、それまでに見聞きした人間の悪事を閻魔大王に告げ口に行くと信じられていたことから、庚申の日の晩になると夜通し起きて三尸の虫が出ていけないようにする、という慣わしでした。
三尸の虫はいろいろな呼び方があり、ここにでてくる「三彭(さんぼう)」もそのうちの一つです。
この三浦半島には、庚申の日に夜通し起きていたことによって将来の極楽行きを約束された、と考えた人たちが記念に建立した庚申塔の数が非常に多く、この毘沙門の庚申供養塔もその例に漏れません。
この時代から200年ほど下った江戸時代末期、文化9年(1812年)に編纂された三浦半島の地域史料である「三浦古尋録」には、毘沙門村の戸数は七十三戸と記載されています。
このことから、多くの人たちが庚申信仰に身を捧げていたことがわかります。
当時、科学万能と信じられる現代とは違って、人々の心の拠り所は神仏でした。
現代ではすっかり廃れてしまった庚申信仰ですが、当時の人たちは庚申の日の晩になると料理を持ち寄って集まり、いろいろな世間話に花を咲かせた事でしょう。
あるいは、ただひたすらに神仏の加護を願って念仏ざんまいの時間を過ごしていたかもしれません。
今ではすっかり草の中に埋もれ、誰からも見返してもらうこともない古い庚申塔のなかに、今は忘れ去られて行こうとしている里人たちの素朴な信仰心が、ありありと甦ってくるかのようです。
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