三崎口駅前の三崎通りを南下し、 「三戸入口」交差点から西側の御用邸道路へと入ります。
大きく弧を描いてカーブする御用邸道路の、さらに先の三戸の集落の片隅にあるのが、阿弥陀如来さまをご本尊にいただく浄土宗寺院の龍徳山 光照寺です。
この寺の開山は永享2年(1430年)、室町時代の三徹上人によるもので、現在は浄土宗の大本山である鎌倉光明寺の末寺となっており、三浦三十三観音霊場の札所としても信仰されているお寺です。
このお寺の観音さまは「かめくり観音さま」と呼ばれて親しまれており、また三戸の御精霊船流しの神事なども伝わっていますが、それらについてはまた別記事で触れたいと思います。
このお寺は、前述した「かめくり観音さま」ももちろん見どころです。
その他にも、このお寺の周囲には実にさまざまな庚申塔や地神塔が集められており、その年代も造像もさまざまで、さながら庚申塔の博物館のようです。
このように境内の本堂やかめくり観音さま、石塔群に目が行きがちな光照寺なのですが、本堂に伝わる参道の脇には一基の苔むした石塔が立っており、表面には流れるような書体で「南無阿弥陀仏」と陰刻されています。
これこそが、仏道を説いて全国を行脚した、廻国行者として名高い徳本上人の揮毫石塔なのです。
徳本上人は江戸時代に庶民に信仰を広めるために、わずかな布施をたよりに全国を行脚し、「ただひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることにより人々は救われる」と民衆に説いてまわった人です。
その高徳と人気はとどまるところを知らず、帰依した信者が望めばただちに「南無阿弥陀仏」の名号を書いて与え、または供養塔を建てて、念仏の布教に生涯を捧げたとされています。
(和歌山県日高町公式サイトより)
徳本上人は今でいう和歌山県に生まれました。
4歳にして兄を亡くしたことから、世の無常を嘆いて9歳で出家を志したというから今の時代の感覚ではちょっと驚くべきことです。
しかし、9歳という若すぎる出家に対しては親の猛反対にあい、実際に出家を果たしたのは27歳になってからでした。
徳本上人は京都で法然上人の旧蹟を参拝すると、諸国を旅しながら南無阿弥陀仏を唱え、布教に尽力しました。
そこで浅草の増上寺の大僧正が徳本上人への関東招聘を願っていたので徳本上人は感激して応じ、関東へと旅立ったのです。
徳本上人の揮毫であった「南無阿弥陀仏」はおもに紙に書かれたものが多かったといいますが、いつかはぼろぼろになってしまう紙よりも、石塔に陰刻していつまでも後世に伝えようとした人々によって、いくつもの揮毫石塔が建てられました。
この徳本上人の揮毫石塔は、だいたいが独特で個性的な筆使いであるうえに、一番下には「徳本」と書かれているものが多いので一目でそうと分かる事が出来ます。
このような徳本上人の揮毫石塔は、三浦半島や横浜市を含めた神奈川県全域に残されており、いかに民衆の人気を得ていたかというのが分かります。
徳本上人は全国を巡るうち、文化11年(1814年)、摂津から京都を通り、桑名、島田、箱根、鎌倉と歩を進めて神奈川の宿を通り、江戸は小石川の伝通院に宿泊されたとされています。
徳本上人には全国の大名、庶民、果ては大奥の女中までが熱狂的に帰依したそうです。
徳本上人自身も積極的に諸国を巡っては仏道を説き、カネを木魚を激しく打ち鳴らす徳本念仏というものを行って、数多くの信者に仏道を説いたそうです。
せっかくのご縁なので、御朱印を拝受いたしました。
この光照寺の観音さまは「かめくり観音」さまのみならず、三浦三十三観音の巡礼者の手を引いて案内してくださる「お手引き観音」さまでもあるそうです。
こちらの御住職は実に親切な方で、いろいろなお話をいただくうちにすっかり長居してしまいました。
このように一見の参詣者にも丁寧に対応してくださるお坊さまが多くて、実にありがたいことです。
あれから幾星霜の時が流れた令和の時代、かつての高僧であった徳本上人がこの地で民衆を集め、カネを打ち鳴らしながら南無阿弥陀仏の名号と仏徳を伝え、ひとりでも多くの民衆が救われんことを願って一筆一筆に力をこめた、いにしへの日の思い出がここにも蘇るようで、冬の日の爽やかな陽光もいっそうあたたかく、この平和な三戸の街を今でも照らし続けているのです。
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