三浦半島の、どこまでも続く大根畑やブロコリー畑を眺めながら原付を走らせていると、道端にひっそりと建つ石塔が見えてくる。
近づいてよくよく見てみると、罵倒観世音の石仏に並んで「毘沙門尊天〇〇」と書かれた道しるべであり、裏に回ってみると「奉 祈願 皇軍将兵 武運長久」とあり昭和17年(1942年)の建立である。
その先へ先へと果てしない畑の中を進んでいく。
都会ではあまり見る事のない、地の果てまで続く道である。
しばらくは長く畑の中を走るのだが、しだいに山深い道へと変わっていくのである。
やがて、この森深くの中腹に見るも鄙びた毘沙門堂が見えてくる。
平時は訪れる人もまばらだが、今なお三浦七福神の毘沙門天として地域の崇敬を集めている毘沙門天は白浜毘沙門天とも呼ばれ毘沙門の地名の由来ともなっているが、実際にはここより数キロ内陸に行った慈雲寺の毘沙門堂であり、開基は応安元年(1368年)と説明板にはあり、南北朝のころであるからその由緒の正しさを計り知る事が出来る。
堂内は綺麗に整理整頓され、定期的に管理されているようで、扉は閉じられ毘沙門天のお姿こそ拝見することはできないものの、地域の人々の信仰の深さと毘沙門天に対する愛情が見えてくるようである。
三浦の白浜毘沙門天は高さ1.1メートルの江戸時代の作で、史料によると甲冑を見にまとい堂々と立つ姿が勇ましく、そのお顔はりりしく作られているそうである。
(地域史料より)
もともと毘沙門天の信仰は平安時代に盛んになり、怨霊退散と国土鎮護の守護神として信仰されていた。
こちらの毘沙門天は「新編相模風土記」三浦毘沙門の章で紹介されており、三浦七福神の公式サイトでは江戸時代の木像を紹介しているものの、本来の本尊は
「当初の海中より出現せし像を置く、長さ三尺許。今も海中より正月三日鶏鳴に竜灯現すると云。前立は毘沙門天、吉祥天の像があり慈雲寺持なり」
とあるように、海中から発見された小さな木像であり、高さは60センチ足らず、両腕が失われ損傷激しく、顔の表情はまったく分からぬ仏像であるという。
(地域史料より)
いま、訪れる人もまばらなこのお堂の脇には、かつて熱心に信仰していた人々がわらじで刻んだ痕跡が石段のすり減りとなって残り、遠い昔に一心に毘沙門天に祈りを捧げた無名の里人たちの姿がありありとよみがえるようである。
そして、誰もいない静かな白浜に下りれば、正月3日の明け方、鶏の鳴き声の聞こえる時間にはるか遠くの大海原より、ぽつりぽつりと現れてくる竜の灯を拝することを信じ、狭いお堂に集まり、また極寒の海岸で立ち両手を合わせ続ける里人たちの姿を想像するとき、今は失われし市井の信心と振り返る者もまばらな毘沙門天の寂しさが伝わってくるようである。
いま、この海岸にいる者はもうすぐ原付で立ち去ってしまう自分ひとりと、蟹などの海の生き物だけである。
この、何千年何万年と続けてきた寄せては返す波の潮騒と、長い長い時間の中に、人の生のはかなさをひしひしと感じるのである。