自衛隊の武山駐屯地から衣笠インターチェンジへ続く山間の道のを登っていくと、三浦半島のほぼ中央、横須賀市武の丘の上にでます。
うっそうと茂る樹木の中の伸びる階段の先に、陽光に照らされた静かなお寺があります。
源頼朝ゆかりの日金地蔵で知られる浄土宗寺院の東漸寺です。
このお寺は浄土宗である鎌倉光明寺の末寺で、ご本尊さまは阿弥陀如来さまです。
もともと、三浦大介義明公の五男であった長井義季が自身の屋敷を寺院として改築したのが始まりであるとされています。
ここに安置されている日金地蔵は鎌倉二十四地蔵の一つとされています。
鎌倉幕府の創始者である源頼朝は、伊豆の日金山にあった日金地蔵尊に源氏再興の祈願をしたところ、見事にその願いはかなえられました。
この霊験にいたく感動された源頼朝が日金地蔵尊を模した仏像を造らせ、鎌倉市雪ノ下の岩窟不動尊の東側にあったという松源寺(廃寺)のご本尊さまとして祀ったと伝承されています。
この松源寺が明治時代初期の廃仏毀釈運動によって廃寺となると、各地を転々とする流浪の旅の果てに、昭和のはじめごろ東漸寺に落ち着いたというもので、鎌倉二十四地蔵尊が横須賀にあるのはこのためです。
このお地蔵様は、岩の上にお座りになってしっかりと上半身を直立させ、右手に錫杖を持ち、左手に宝珠を乗せたお姿で、右足を左ひざにおく半跏の姿をしています。
目は玉眼をあしらった寄木造り、像高は1メートルあまりの木像で、全身の金箔や輝く光背などは後で補修されたものだそうです。
胎内には今なお墨書の銘文が残り、それによれば寛正3年(1462年)に鎌倉大仏師のひとりである宗円によって造られたものであることが分かっています。
また、この東漸寺は、生きながら阿弥陀如来の化身とまで崇められた高僧、願海上人の霊場ともなっており、今なお参詣する人が絶えません。
本堂横の登り口には、「願海行者廟所道」と彫った石柱が建っています。
ここが霊場の入り口です。
この入り口から、裏山へと登っていくゆるい坂道を登っていくと、そこには苔むした古木が立ち並んでおり、その影には徳本上人直筆の「南無阿弥陀仏」の揮毫石塔が建てられています。
その奥には「本阿弥陀仏願海行者之墓」と陰刻された立派なお墓があり、その左側面には「安政五戊午歳十月二十七日」と刻まれています。
写真の左から勝海和尚、願海上人、真海和尚のお墓です。
願海上人の墓に向かって右手にある「願海上人行実」の碑によれば、願海上人は江戸幕府第11代将軍であった徳川家斉公の治世、寛政5年(1793年)に尾張国名古屋で水野家に生れました。
享和2年(1802年)、弱冠9才にして仏道を求めて岐阜の本誓寺で剃髪し、出家したのです。僧号を「昇蓮社峻誉」と授けられました。
文化5年(1808年)、まだ若い15歳のころ、僧正が用いる錫杖を持つ係となったことをきっかけに、文化12年(1815年)には五重の秘訣を修得。
文化13年、願海上人23歳のときには、僧正教であった誉大和尚の法燈を受け伝えて一人前の僧侶となったのです。
それからの願海というものは、知らぬ土地を歩いて人々を救いながら念仏を説いて回る廻国修行の旅に生涯をささげ、道みちで人々からお布施を受けながら諸国を旅しながら人々に仏道を説いて回る毎日でした。
その修業は、読んで字の如く決して生やさしいものではなく、しかして仏の道を歩むものは遠き路も感謝であり、また粗食に耐えることも感謝であるという願海上人の信念が、故郷を捨て親と離れ、三界無庵の旅をつづけさせたのでしょう。
文政の初年頃のある日、東海道を下りながら幾多の古刹を訪れていた願海上人は、ここ横須賀の地にやってきました。
ふだんは誰もいないような山奥から、一心に打ち鳴らされるカネと読経の声が聞こえてきたことから村人が見に行くと、ひとりの老僧が衣もやぶけた姿で読経していたのです。
そのあまりの尊い姿に心打たれた村人達は、さっそく願海上人を招いて大田和の名主であった浅葉仁右衛門に知らせました。
浅葉仁右衛門は、願海上人の崇高な徳を慕って手厚く迎え、近くにあった古跡山 専養院に住まわせたのだということです。
願海上人は常に精進と苦行を追い求め、毎日のように武山を登って武山不動堂に参詣しました。
この時に願海上人が修行をした行場が、今も残る「武山不動の滝」であるということです。
願海上人は毎年この滝で30日にもおよぶ寒中水行を行い、それが10年あまりも続いたと言いますから、現代の暖房器具に慣らされたみうけんには想像もできないことです。
このような修行を続けながら三浦半島の各地を巡っては里人を集めて説法された願海上人の「南無阿弥陀仏」の揮毫石塔や掛軸は、今なお三浦半島の各地に残されています。
そのため、当時の人々から願海上人は「生き仏」としてよく崇められ、とても親しまれたという事ですが、どんな高徳な高僧でも年齢には逆らう事ままならず、終に病に斃れたのです。
願海上人は死の数日前にはすでに自分の死期を悟ったのでしょう。
突如として村人や弟子たちを集めると、自らの命が間も無く耐えることを告げました。
その予告の日、たくさんの村人や弟子たちが集うなかでいつものタべの勤行が終ると、そのままお座りになった姿で静かに息を引き取っていたという事で、村人たちが号泣の中に合掌礼拝している姿が目に浮かんでくるかのようです。
安政5年(1858年)11月27日、享年65歳でした。
願海上人は、生涯をもって仏道の普及と衆生の救済に務めた稀有なひとで、その崇高な精神は今なお色褪せる事なく、多くの修行者や信者たちの心をうち続けています。
この時もご住職にいろいろとお話をいただき、読経ののちに御朱印を拝受してきました。
このようなご縁と功徳を、日々いただける事には感謝しかありません。
いま、晩秋の木枯らしが吹くなかで一人願海上人の墓前に手を合わせているとき、多くの民衆を導きながら崇高な心をもって生きた高僧とその弟子たちの読経の声が甦るようで、ここ大田和の地に今なお語り継がれる上人の多いなる化道力をにわかに思い起こすのです。
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