鶴見区の矢向という町、矢向小学校のところに、住宅街の中に埋もれるようにしてひっそりとたたずむ静かなお寺があります。
浄土宗寺院である記主山 然阿院 良忠寺です。
このお寺の歴史は古く、寺伝はもちろんのこと、江戸時代後期に編纂された一大歴史資料である「新編武蔵国風土紀稿」にもその起源が詳しく紹介されています。
それによれば鎌倉時代の仁治元年(1240年)、浄土宗の然阿良忠上人が霊夢を受けて鶴見川のほとりへ行ったところ、小さな薬師如来の像が岸に打ち上げられているのを見つけ、ただちにこれを拾い上げて祀ったのが始まりである、というのは以前の記事で紹介した通りです。
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さて、この良忠寺の本堂の前には、お顔もお体もすっかり削れてしまい、その表情すら詳らかでないお地蔵さんが一体立っておられます。
一見してどこにでもありそうな「お地蔵さん」ですが、これこそが新田義貞にちなむ矢止め地蔵尊だということです。
むかし、時は鎌倉時代の元弘3年(1333年)のことです。
鎌倉幕府打倒の旗を立てた新田義貞が、反幕府軍を率いて鎌倉を目指して進軍してきました。
反幕府軍と幕府軍は、多摩川を挟んで激しい合戦を繰り返します。
この時、新田義貞が戦勝祈願に「南無八幡大菩薩」と書き込んだ矢を放ち、その矢がここまで飛んできて、小川のたもとにあった松の大木に突き刺さったのです。
これを見た村人たちは、この松に縁があると考えたのでしょうか。
ここに一体の地蔵菩薩を建立して、累々と重なる戦死者の屍をねんごろに供養したということです。
このような由来から、この地蔵菩薩さまは「矢止め地蔵」と呼ばれるようになったということです。
また、このあたりを昔から矢向といいますが、矢が向かってきたというのがその地名の由来だそうです。
このお地蔵さまは、もともと尻手商店街の中央、矢向交番の近くにあった「地蔵橋」という橋のたもとにあったのですが、昭和2年に市営バスが開通するのに合わせて良忠寺にお移りになったということです。
今では小川も地蔵橋も姿を消し、昔の面影はありません。
かつて、このお地蔵さまは拝むと悪い事を止めてくださるという評判が高く、多くの 人々の信仰を集めたといいます。
中には、このお地蔵様を削って、お守り代わりに持ち帰った人も後を絶たなかったそうです。
そのお礼として大願成就の際には、河原の小石をお地蔵さまに奉納する習わしがあったそうで、今なおそのお足元にはたくさんの小石がお供えされているのです。
それほどまでに霊験あらたかで、人々の信仰を集めたお地蔵さまには
つみ(罪)とが(咎)も いまは矢止めの 地蔵尊
六道輪廻に 迷う身なれば
という御詠歌が伝えられています。
さて、せっかく参詣したので、御朱印を拝受してきました。
力強い筆致の御朱印で、有難みもひとしおです。
いま、冬も終わりに近づいた夕暮れの中で、数珠をもち合掌しながらこの矢止め地蔵さまにあらためて向き合いました。
すると、その削れたお体とお顔の傷の数だけ、多くの人々の苦しみを受け止めてきた事が思い起こされて、すっかり削れてしまったそのお顔に触れるたびに、昔日の人々が一心に願いを込めてノミをあてた在りし日が思い起こされるかのようです。
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