あるうららかな春の日、三浦市初声町の高円坊の里へとやってきました。
この地は和田義盛の孫である和田朝盛が高円坊と名乗り、僧として住んだことが地名の由来とされています。
この辺りは三浦一族の傍流である和田氏とかかわりが深く、畑の真ん中に残された「わくり大井戸史蹟の碑」も、和田氏とのかかわりを示す史蹟の一つとなっています。
この石碑がいつ建てられたものかはわかりませんが、裏面に「高円坊部落」と陰刻されていることから、それほど新しいものではないようです。
この近くには、鎌倉幕府侍所別当であった和田義盛が信仰した「塔の台」というものがありました。現在の高円坊日枝神社のあたりです。
どうやら天平年間に行基がこの地を旅した際、こんこんと湧く清らかな泉に感動し、ただちに延命地蔵菩薩の尊像を彫刻すると小さなお堂を建立して安置したのだといいます。
このお堂が後の五劫寺(ごこうじ)であるかどうかは詳らかではありませんが、後の五劫寺のご本尊様となります。
鎌倉時代に至ると、この五劫寺と延命地蔵菩薩は霊験あらたかであるという評判となり、和田義盛が大いに帰依したという言い伝えが残ります。
なお、五劫寺は現在は廃寺となっており、茂みの中にわずかに粗末な冠木門と石仏や墓地が残されているにすぎません。
この五劫寺については、後日にでも別記事で取り上げたいと思います。
このわくり井戸のわきには、現在も庄司川が流れています。
和田義盛は、五劫寺に参拝する前には必ずこの川で身を清め、その配下もそれにならったといいます。
そのために一時期は精進川という名も伝わっていたそうです。
現在は五劫寺も失われてしまい、川も岸をコンクリートで固められて、往時をしのぶものはありません。
「わくり井戸」ですら、数百年の時を経て今では石碑が建つばかりの場所となってしまいましたが、このあたりの豊潤な湧き水は今でも高円坊のあたりの農地を潤しています。
いま、この人気もない「わくり井戸」の石碑の前に立つとき、かつて五劫寺に参詣した時の名将和田義盛とその従者たちが、もろ肌を脱いでは武芸で鍛えられた逞しい肉体に川の水をかけ、一心に神仏の加護を願ったの姿が目に浮かぶようです。
このように、一見して何の変哲もないような田畑と小川の中にも、かつてこの里に生きてきた人たちの息遣いが間違いなく伝わっているのです。