三浦市初声町の高円坊というところに、この地域の鎮守である高円坊日枝神社があります。
この神社は三浦半島の中でも比較的高台に位置しており、眼下には東京湾を望むことができて、その背後には富士山をいただく、とても風光明媚なところです。
この広い丘にはいちめんにキャベツ畑やダイコン畑が広がっており、その畑に囲まれるようにしてこんもりと茂る鎮守の森は、一昔前の懐かしい時代にタイムスリップしてしまったかのようです。
この神社の向かいに広がる畑の隅の草むらの中をよく探すと、少しひずんだ形の紡錘型の石碑が、草原に埋もれるようにして立っているのがわかります。
これは朝盛塚(とももりづか)の碑で、この碑がたっている草むらは少しこんもりと盛り上がった塚になっているのがわかります。
今からさかのぼること800年ほど前、鎌倉幕府の侍所別当であった和田義盛(わだよしもり)という武将がいました。この和田義盛は鎌倉幕府の設立に対して大きな功績を残した三浦氏の一族で、文武に秀でた優れた武将であったといいます。
その孫が和田朝盛(わだとももり)で、祖父の血を継いでか文武両道に優れ、時の鎌倉将軍であった源実朝から大きな信頼を得ていました。
しかし、もともと和田氏は執権北条氏との終わることのない勢力争いを続けており、犬猿の仲ともいえる存在で、ついに和田氏は北条氏を討伐することを決意します。
建保元年(1213年)、北条氏に対して和田氏の一族が挙兵した和田合戦がはじまると、和田朝盛はどちらに味方するかという問題において、祖父である和田義盛と将軍である源実朝との板ばさみになります。
思い悩んだ朝盛は結局どちらの味方もできずに出家し、「実阿弥陀仏 高円坊」と名を改めて京都へと向かいます。
いっぽう、祖父である和田義盛は、かわいい孫でもあり弓の名手でもあった和田朝盛を手放そうとはせず、京へ向かう途中だった和田朝盛に使いをよこして途中の駿河国から連れ戻しました。
これにより、主君であった源実朝を捨てて祖父についた和田朝盛は、長男であった佐久間家盛までも敵として戦います。
三浦義村は起請文まで出して勝利を誓いあったものの、何を思ったか旗揚げと同時に和田義盛を裏切って和田義盛は孤立し、結局は幕府反乱の汚名を着せられたのです。
それでも和田義盛は孤軍奮闘しますが、多勢に無勢で敗退して由比ヶ浜の露と消えたのです。
時に義盛67歳の時でした。
いっぽう、「新左衛門尉常盛(四二歳)と 和田新兵衛朝盛とも逐電す云々」と吾妻鏡にあるように、和田義盛の長男・和田常盛と、孫の和田朝盛は戦場から命からがら脱出したようですが、その詳しい消息は分かっていません。
ただ、三浦郡誌には「高円坊、和田義盛の孫朝盛はこの地に来て剃髪し高円坊と称し、随従の士十五人と共に土地を開墾して住んだ」と記載されています。
これが本当であれば、和田朝盛はひそかに高円坊の山奥に逃れ、山野を開きながらその余生を全うしたのでしょう。
この時、和田氏の家来たちも朝盛を慕い、高円坊に住みついて百姓となったといい、その子孫の川名氏、加藤氏、鈴木氏はこの地域に今なお続いているということです。
いま、この草むらの中に隠れるようにしてひっそりと建つ墓石と、バラバラとなった五輪塔の残骸、そして自然石を使って作った朝盛塚碑が建っています。
この朝盛塚の碑には子爵であった三浦基次が記載した碑文が刻まれています。
この石碑の前にひざまづき、心静かに手を合わせていると、まだ年も若くして祖父と共に戦って敗れた朝盛が、15人の家来たちとともに住み、この高円坊の地を切り開いて生きた生き様がひしひしと思い出されてくるのです。