小田急線秦野駅から北へ向けて20分ほど原付を走らせると、やがて長閑な農村風景の中に家屋が点々とする東田原の里へ出ます。
その東田原の駐在所の裏手にある田原ふるさと公園の脇には、源実朝の首塚といわれている五輪塔が今もひっそりと立っています。
この五輪塔は、地元では御首塚と呼ばれて毎年11月23日になると実朝まつりが盛大に開催され、実朝の供養祭や稚児行列などが行われます。
紅白の色がはえる衣装をまとった稚児行列が出て、多くの見物人で賑わうということで一度は見に行って見たいものです。
(秦野市公式サイトより)
ここに祀られている首の主とされる源実朝は、鎌倉幕府代3代将軍を務めた人物でした。
源実朝は大変すぐれた歌人でもあり、勅撰和歌集や小倉百人一首にも鎌倉右大臣としてその名を見ることができます。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の次男として生まれた源実朝は成長するに従って学識を広め、兄であった第2代将軍源頼家がクーデターで追放されるや、12歳という若さで鎌倉幕府の第3代将軍に就任します。
不運なことに、第2代将軍であった源頼家は伊豆へと流される途上で暗殺されてしまうのですが、これを恨みに思ったのが源頼家の子、「公暁(くぎょう、こうきょう)」でした。
公暁は僧侶の身でありながら、「親の仇はかく討つぞ」との掛け声のもと、叔父である源実朝を鎌倉の鶴岡八幡宮にて暗殺します。源実朝28歳の時でした。
同時に、仲間の僧兵が源実朝の供を追い払うと、公暁は八幡宮の石段の上から「我こそは八幡宮別当阿闍梨公暁なるぞ。父の敵を討ち取ったり」と高らかに宣言し、追手を尻目に逃げ去ったといわれています。
公暁は実朝の首を持ち、雪ふりしきる中を走りました。
祖父であったとされる三浦義村に使いを出して頼るものの、やってきたのは追手の一団です。
父の仇は取ったものの、多勢に無勢の中で追手を切り捨てながら血路を開こうしますが、公暁までもが享年20歳にして討ち取られてしまったのです。
この時、源実朝の首は行方不明となり、別の歴史書では岡山で発見されたという説もあります。
結局、実朝は首のないまま勝長寿院に葬られましたが、この失われた首を三浦一族の武将であった武常晴が探し出して葬ったのが、この東田原の御首塚であると、江戸時代後期に編纂された一大史料である「新編相模国風土紀稿」大住郡秦野荘東田原村の項に残されているのです。
武常晴という武将は、三浦一族が公暁討伐に差し向けた家臣の中の1人でした。
公暁との戦いの中で偶然に実朝の御首を手に入れた武常春は、なぜか首を三浦一族へ渡す事はせず、当時三浦一族と犬猿の仲とされた波多野氏を頼り、この地に埋葬したと伝えられています。
のちの日のこと、源実朝の悲運を哀れに思った波多野氏は、源実朝が常日頃から信仰していた僧、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いて御首塚の供養祭を行いました。
その時に創建されたのが、金剛寺であると言われています。
いま、御首塚の近くの田原ふるさと公園では、多くの親子連れが敷物やテントを持って集まり、楽しそうにお昼ごはんを食べている光景を目にする事ができて、まさに平和そのものといった感じがします。
しかし、かつてここでも血なまぐさい戦乱があり、それによって征夷大将軍にまで上り詰めながら不運の生涯を閉じた源実朝の伝説を想う時、優しげに頬をなでる風が夏の木立を揺らして、往時の郷愁を誘っているかのようです。