東名高速道路の秦野中井インターの南側、中井町は土屋村と呼ばれたところの、以前に紹介した中井町の遠藤原というところ、「花籠の台」から少しだけ東に原付を走らせると、こんもりとした畑の上に古そうな石塔が仲良く並んでいるのが目につきました。
はて、どうも気になったので原付をUターンさせて戻ってみると、そこは「ふるさと土屋いろはかるた」で紹介された五十塚の遺跡だったことが分かりました。
戦乱の
五十塚のこる
古戦場
「いろはかるた」でそのように紹介されているここ五十塚は、道路の両側に一面に広がる農地の片隅に残されています。
もともとこのあたりの字を五十塚といいますが、これはこの五十塚が由来となったもので相当に古い字名とされていますが、その由来には聞くも悲しき歴史の哀話が秘められていたのです。
今から遡ること500年のむかし、永正9年(1512年)のこと、相模国一帯を支配していた豪族である三浦一族に、いよいよ北条早雲が攻撃を仕掛けました。
肥沃で広大な平地は農耕に最適であるとみた北条早雲は、三浦一族を三浦半島へ追いやり、やがて相模国奪取と三浦氏を滅亡へと導くその過程でいくつもの戦乱が開かれ、至る所には累々とした屍が積み上げられたことでしょう。
もともと伊勢原市の岡崎城を拠点としていた三浦道寸公は必死の防戦を繰り広げ、ここ遠藤原も戦場になったという話があります。
思い起こしてみればどこまでも続く平原は周囲に小高い山を控えて全体を見据えての指揮も執りやすく、また交通の便も甚だよろしいのでなるほど戦場となるには充分な要素を秘めていると思います。
時は流れて、 戦国時代末期の永禄年間のことです。
三浦氏が滅ぼされて相模国は北条氏のものとなったものの、つぎは甲斐の名将・武田信玄公によって攻め込まれます。
しかし、さしもの名将武田信玄公も小田原城の防備の硬さには舌を巻いて攻めあぐね、結局攻略はかないませんでしたが、諦めて引き上げる武田勢を北条氏照率いる軍勢が急襲して大きな戦闘になったそうです。
結局は野戦と山岳戦にたけた武田勢の圧勝で終わり、その後の哀話は別記事に詳しく紹介しています。
この戦いでも双方多くの戦死者を出し、名のある武将や少しでも地位のある者の遺体は首を取られて胴体だけをさらし、そうでないものは打ち捨てられて惨憺たる有様だったことは容易に想像できます。
これを見た村人が哀れに思い、これらの亡骸を集めて葬ったのがここ五十塚と六十塚とされており、このあたりには夥しい数の五輪塔の残欠が散らばっていたそうですが、今となってはその面影はありません。
現在は、わずかに往時を偲ばせる石碑が2つだけ建てられており、向かって左手の石碑には「神徳六十塚権現 萬民安泰悪病消滅」と陰刻されています。
向かって右側の石碑には「神徳六十塚権現 霊神ハ原大隅守管士則明外数名ノ武者ナリ之ヲ示ス 昭和三十三年九月二十三日 神通力者 原覚道 当年六十九才」とあります。
ここに出てくる原大隅守とはなんだろうと調べてみましたが、武田信玄の家臣に原大隈守虎吉という武将がいるそうですが、この原大隈守虎吉は生没年も分かっていない謎が多い武将なので資料にも乏しく、この五十塚と六十塚との関連性を断言することはできません。
また、「神通力者 原覚道」という方がどのような趣旨でこの石碑を建立されたのかも気になる所ですが、やはりお名前からして原大隈守虎吉に関係のあった方なのでしょうか。
住宅地図で確認すると、この近辺には今なお原姓の方々が多くお住まいのようです。
今、時は流れて数多の戦乱の日々から500年の歳月が流れました。
今となっては倒れ伏した枯れ草が夕日に照らされ金色に輝く野原の果てに遙かなる大山を望み、その傍らにはトラクターが畑を耕す牧歌的な光景が広がっています。
かつてここが戦場であり多くの将兵が矢に倒れ刀傷を負い、その屍を無惨に晒していたことを思うとき、また村人たちが塚を築いては手を合わせては口々に念仏を唱えつつ弔う姿が目に浮かぶようで、遠い遠い昔日の哀しき思い出がここにも甦るのです。
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