みうけんのヨコハマ原付紀行

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悲運の皇子 護良親王の最期・下(鎌倉市)

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前回は護良親王についての解説と、戸塚区の首洗い井戸、首級を埋めたとされる王子神社護良親王の乳母の悲しき伝説をわずかに残す伊勢山皇大神宮を見てきたが、舞台は鎌倉へと移る。

 

護良親王は皇族であるため、宮内庁が歴史の見解を出しており、上巻で今まで見てきたものが地域に根差した伝承であるのに対して、鎌倉のものは日本政府・宮内庁の公式見解も混じったものになってくるのである。

 

こちらは鎌倉宮

 

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護良親王の時代から時ははるかに流れて明治維新の後のことである。

それまで東光寺跡とされていた、神奈川県鎌倉市二階堂の広大な敷地に親王の霊を弔うために鎌倉宮が造られ、これは地元では通称「大塔宮」(だいとうのみや)と呼ばれる。

鎌倉宮最寄りのバス停留所の名は「だいとうのみや」と読むが、鎌倉宮では親王の名を「おおとうのみやもりなが」と呼んでいる)。

 

御祭神は言うまでもなく護良親王である。

その他には持明院 南御方(じみょういん みなみのおんかた)という、持明院中納言 藤原保藤卿の息女である。

この女性は護良親王の鎌倉での幽閉に随行されて護良親王の御身の回りの御世話をなされて、親王のご最期にあたっては理知光寺(廃寺。現、皇子護良親王墓陵)の長老と共に丁重に弔いをされた後、上洛し後醍醐天皇へその最期の仔細を報告したと公式な記録には記されている。

境内に摂社があり、「南方社」(みなみのかたしゃ)と呼ばれている。

 

また、村上彦四郎義光公(むらかみひこしろう よしてるこう)は、護良親王の忠臣であり吉野落城に際しては、自刃を覚悟した親王をお諫めし、親王の鎧直垂を着用して身代わりとなり、敵前で「我は護良親王なり」と叫んで腹を十文字に掻き切るとともに護良親王が落ちのびる時間稼ぎをされて壮烈な最後を遂げたとされる。

明治41年(1908年)に「至誠純忠の勇士」として従三位を追贈され、贈従三位左馬権頭と呼ばれるようになったのである。

境内に摂社があり、「村上社」(むらかみしゃ)と呼ばれている。

 

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拝殿に向かう前に、かわらけ割ができるところがあった。

なんと、この年みうけんは厄年を迎えるのである。そもそも厄年などどいうものは女性は33(さんざん)、男性は42(しに)などという全くのゴロ合わせであり、みうけんはまったく信じていないのであるが・・・。


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だが・・せっかくなので、これも何かの縁。

100円をお納めしてやっておくとしよう。

 

賽銭箱に100円を納めて、この小さな土器(かわらけ)に息を吹きかけて、盃に自分の「厄(悪いもの)」を移す。


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それを、「厄割り石」と呼ばれる大石に投げつけて割り、厄をも祓い落とすのだという。

そういえば、三浦一族最後の武将である三浦道寸義同公の辞世の句を思い出す。

 

北条一族に追い詰められた三浦道寸義同公は、敵前にて

 

 討つ者も 討たるる者も 土器(かわらけ)よ

   くだけて後は もとの土くれ

 

と、辞世の句を残して腹を十文字に掻き切って絶命したとされるのである。


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この土器たちも、まさに「砕けてのちは もとの土くれ」。

多くの人々の願いを込め、厄を抱いて、こうして砕け散っては人知れず土に帰っていく土器たち。このような境遇に自らの身上を重ねた三浦道寸義同公の悲しい最期を、つい思い起こして涙してしまう自分がいるのである。

 

話を戻して、鎌倉宮の拝殿に到着した。

こちらで二礼二拍手一拝。


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先ほども記載した村上彦四郎義光公(むらかみひこしろう よしてるこう)を祀る「村上社」にも二礼二拍手一拝。

 

その脇にあるのが、(むらかみしゃ)と呼ばれている。

この中にあるのが「撫で身代わり様」と呼ばれる武者姿の木像である。

 

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撫で身代わり様は、村上彦四郎義光公(むらかみひこしろう よしてるこう)は、護良親王の忠臣であり、元弘3年(1333年)の吉野城落城に際しては、自刃を覚悟した親王をお諫めし、親王の鎧直垂を着用して身代わりとなり、敵前で「我は護良親王なり」と叫んで腹を十文字に掻き切るとともに護良親王が落ちのびる時間稼ぎをされて壮烈な最後を遂げたとされる。

明治41年(1908年)に「至誠純忠の勇士」として従三位を追贈され、贈従三位左馬権頭と呼ばれるようになったのである。

この木像は境内にあった樹齢103年のケヤキの大木を使って彫り上げ、平成16年(2004年)に完成したものであり、厄除けや病気平癒のご利益があるとされ、参拝者が撫で回すので全身が光沢で輝いている。


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ここから先は拝観料を要する。

せっかく来たので、見て行く事にしよう。拝観料は300円である。


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こちらが、護良親王が幽閉されていたという土牢である。

約4メートルの深さ、広さは八畳敷であり、建武元年(1334年)11月より、建武2年(1335年)7月23日までの約9カ月の間、幽閉されていたのだと説明版がある。

ただ、実際にここに幽閉されていたかどうかについては諸説あるという。


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約9カ月の幽閉を経て、対立していた足利一族の武将である足利直義の家臣、淵辺義博によって斬られた護良親王の首が晒されたというところがこちら。

 

護良親王は、淵辺義博によって首を斬られそうになった時に淵辺義博の刃を刀を歯で食い止めて歯でへし折ったという。慌てた淵辺義博は脇差で絶命させて首を刎ねたものの、護良親王の首が睨み付けてくる余りにも恐ろしい形相に耐えられなくなり、その恐怖から首級を薮に投げ捨てて逃げてしまったと言う。

護良親王28歳の時である。


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当時、今の鎌倉市二階堂にあった理智光寺(廃寺)の住職は護良親王をあわれに思い、放置されたままであった首級を藪から拾い上げてねんごろに埋葬したのだといい、今では訪れる人のほとんどない理智光寺の跡地には、宮内庁も公認した護良親王の廟所とされるところが残されているのである。

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しかし、現在は令和元年の超大型台風の影響により安全性に問題があるとして、直接の拝観はできないのが残念であった。


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ところもどって、鎌倉宮の宝物殿。

宝物殿といっても建物の一角にガラス張りのショーケースのようなものがあり、そこに何やら雑多に並べられているにすぎぬのだが、その中にある護良親王の騎馬像がひときわ目を引いているのがわかる。

この騎馬像は憤怒の表情で威厳みなぎり、左手には大弓を携えていかにもといった武士の表情であるが、この護良親王が乗る馬の毛並や筋肉の躍動などもよく表現された名作であろう。


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また拝殿の正面には、本神社のお守りの代表格である「獅子頭守」(ししがしらのまもり)が祀られており、誰でも拝むことができる。

かつて、護良親王獅子頭のお守りを兜に忍ばせて自らの身代わりとした伝説があり、その由縁から特に交通安全と身代りには霊験あらたかで、特に自動車を運転する人からの人気が高く、鎌倉市内ではこの獅子頭を自動車のダッシュボード上においているのを見かけることがある。

このたび、みうけんも1つお買い求めさせていただいた。

 

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このように、歴史的にはさほど有名でないながらも護良親王は鎌倉を中心とした旧鎌倉郡のあいだで今なお広く愛されて崇敬されているのである。

 

この華やかな鎌倉宮に、きれいに着飾った女性たちが集まり、また幼稚園のお迎えと思われる若きお母さんたちが集まっては井戸端会議に花を咲かせる光景からは、かつての護良親王の壮絶な悲劇があったことなど思い浮かびもしないが、ここに確かに時代は流れ、その時代の中に生き続ける護良親王の遺訓は今なお生き続けているのである。

 

 

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