衣笠インターチェンジの北側、三崎街道の信号を左に曲がると矢取前不動尊の祠が建ち、その先に道端に立つ小さな姓名塚の碑を認めることができる。
この辺りはもともと三浦大介義明の居城であった衣笠城の縄張りの範疇に入るところで、この辺りにはかつて慈眼寺という寺があったところとされている。
実際の塚は、この石碑の脇の階段を登ったところの畑の中にあるという。
「横須賀こども風土記」で「須田宅の裏手の畑の中にある」という説明がなされているが、住宅地図上にはそのような家はすでになく、おそらく階段を登りきったところに見える畑のどこかにあるのだろう。
この先まで入ると恐らく不法侵入になるであろうし、立ち入るときはいつもなら周囲で畑を耕している方などに声をかけたりしているが、今回は近辺に誰もいらっしゃらないようであった為に、道路から見える石碑だけを写真に納めてきたのである。
これは、口伝によれば治承4年(1180年)、源氏再興に与した三浦氏こもる衣笠城に平家方の畠山重忠が攻めかかったの衣笠城合戦の後、畠山重忠は戦死した敵味方双方の武士の姓名を調べて、その武器や甲冑とともに埋めて塚を築いたところであるという。
もともと三浦氏と畠山氏の勢力は近いところにいた東国武士同士であったために一族内には縁戚も多く、双方ともに戦うのも本意ではなかったという。
衣笠城合戦の前段階である鎌倉の由比ガ浜の戦いでも、三浦家重臣の和田義盛と平家方の畠山重忠の軍勢が対峙した時も、一時は和平が成りかかったという。
しかし、後からやって来て和睦の話し合いが進んでいることを知らなかった、和田義盛の弟の和田義茂が畠山勢に攻めかかってしまったために双方激しい合戦になってしまったのである。
時代は戦国乱世と呼ぶにはまだ早い段階であったが、それでも全国ではこのような戦乱が絶えない時期でもあった。
この姓名塚は、何の説明板も文化財としての指定もなく、誰かに教わらなければ気付かずに通り過ぎてしまうような小さな石碑が残るだけであるが、遠い昔の近い地域の一族同士、縁戚も多かった中で、お互いの血をかけて戦わねばならなかった乱世の時代の、悲しい哀話を秘めたところである。