眼下に城ヶ島を望む小高い丘の上に、浄土宗の古刹である見竜山・無量寿院・光念寺という寺がある。
歴史ある古刹であるとともに、数多くの民話が残され、現在となっては併設された幼稚園の園児たちが楽しげに遊ぶ声が境内にこだまし、寺の境内からは入り江の向こうに城ヶ島と、それにかかる城ヶ島大橋、眼下には三浦三崎の漁師町をはるかに望むことができ、じつに風光明媚なところである。
この寺を開基したのは三浦一族の重臣であった和田義盛であった。
この創建は建久元年(1190年)というたいへんな古刹で、すぐ隣には源頼朝の桜の御所跡に建つ本瑞寺もある由緒正しい土地柄である。
参道の階段に息を切らして山門をくぐれば、入ってすぐ脇にあるのがもともと三浦七福神の一員であった筌竜弁財天(せんりゅうべんざいてん)の弁天堂である。
現在の三浦七福神の筌竜弁財天は、ここから分霊した海南神社の筌竜弁財天であり、両神は場所は違えど同一といったところであろうか。
この弁天堂の本尊に据えられた筌竜弁財天という弁財天像は、流れるような衣のしわまでが美しく再現されたもので、頭上には鳥居をいただき、力強い八臂の腕を伸ばした真っ黒な女神像である。
台座下には「開運福寿 愛敬宇賀弁財天 鎌倉佛弘 寿慶作之」という墨書銘が残されているという。
この筌竜弁財天には、かつて信仰に生きた戦国武将の伝説がいまなお残され、語り継がれているのである。
治承4年(1180年)8月、源頼朝が三島神社の祭礼の際に源氏再興の白旗をあげた時のことである。
三島神社への祈りもむなしく、石橋山の合戦で完敗した源頼朝は、命からがら船に乗り海路を房州に逃げのびたことは以前にも紹介したとおりである。
一方、源頼朝が頼みの綱としていた三浦大介義明は衣笠城で壮絶な戦死を遂げ、その子であった三浦義澄や和田義盛は衣笠城のが落城するや命からがら脱出し、主君を追って海路を房州に逃れんと久里浜より乗船したのである。
(和田義盛)
しかし、折わるく和田義盛らの乗った船は暴風雨に見舞われた。
しけは激しくなり、波はいよいよ荒れ狂い、もはや自らがどこにいるかも分からずに波の中に数日を過ごしているうち、ついに兵糧も底をついて、最早これまでと覚悟を決めた時であった。
突如として黒雲の中に、眼光がまぶしく光る巨大な竜が躍り出て、和田義盛たちの上を一周するように飛び、去っていったのである。
一同あっけにとられている中で、和田義盛だけは、これは竜神の加護であるとして一心不乱に龍神に祈った。すると足元には大きな筌(せん=竹で編んだ籠で、水中に入れて魚を生かしておくもの)がどこからとなく流れ着き、一行はその筌の中の魚を頂くことにより飢をしのぎ、ようやく一命をとりとめて無事に房州に落ちのびることができたのだという。
後日、和田義盛は、自らの姿が竜となって昇天した夢を見た。
これは日頃から信仰している竜神のお告げであると、発心して筌竜弁財天をここに祀ったのであると伝えられている。
いま、はるかに三崎港と太平洋を一望する門前に立ち、そのわきにある弁天堂の中で香華をたむけて静かに手を合わせるとき、幾星霜もの年月を経てきた漆黒のお体の中に、日々祈りを捧げた勇猛な武将の姿が蘇ってくるようである。