横浜市の副都心、上大岡を抱える港南区は横浜市の南寄りにあって、東西を環状2号線が貫き、遠くには磯子の港を眺める高台の街である。
かつて緑豊かであったろう一面の山々だったところを切り開いて、現在ではすっかり住宅街の装いであるが、その中の笹下という街にあるのが高野山真言宗の関宮山 寂静寺 東樹院である。
この寺は大治2年(1127年)に沙門順玉によって創建したと伝えられ、その後衰廃していたものを沙門至順が嘆いて笹下城主であった間宮豊前守の助力を得て再興したという由緒のあるお寺である。
全国には、タヌキが茶釜に化けていろいろなイタズラや恩返しをする昔ばなし、所謂「ぶんぶく茶釜」の話は至る所に残されている。
また、多くの寺にはタヌキやキツネにまつわる伝説も多く、いかに彼らが人間の生活に密接に関わっていたかが分かるのであるが、この笹下の東樹院にも独自に「文福茶釜の伝説」が残されているのである。
むかし、ある冬の寒い日の晩に、東樹院の庫裏の戸を叩く音がした。
はて、こんな夜更けにと和尚が戸を開けてみると、そこには若くて美しい女が旅姿のまま立っており、寒さに震える声で「旅の者であるが、道に迷ってしまって難儀をしています。足元も見えない夜更けになってしまったので、一晩の宿をお借りできないか」と申し出て来た。
寒い冬の夜に何と哀れな、と思った和尚は女をさっそく迎え入れ、温かい粥をこしらえてもてなしたのである。
次の日の朝、女は何度も礼を述べて立ち去って行ったが、それから数日たったある日のこと、その女が再び東樹院に現れ、先日に世話になったお礼であるとして、立派な茶釜を差し出してきたのである。
当時、茶釜というのは大変高価で贅沢なものであった。
和尚は驚き、たかが粥一杯ごときでこのようなものは受け取れないと固辞すると、女はうなだれるばかりであった。
いったい、この女はどこの誰なのか、問いかけても答えがないので、この女は何か事情があって行くあてもないのだろうと察した和尚は、しばらくこの寺に留まるように勧めたのだという。
こうして、この女はこの寺に住み込むことになったが、「これほどのご親切を受けておきながら、お礼をするものが何もありません。せめて、何か差し上げたいのですが」と言っては筆と紙を貸りると、瞬く間に素晴らしい絵を描き上げたということである。
この女と絵のうわさは、たちまち周囲の知るところとなった。
評判が評判を呼んで、多くの人が寺を訪れるようになり、瞬く間に女は村々の人気者となったのであるが、それから間もなくして、煙のように忽然と姿を消していなくなってしまったという。
それから数日後、村の近くで犬に噛み殺された大きなタヌキの死体が見つかった。
その死体をよく見ると、明らかに寺に住み込んでいた女と同じ着物を着ていたのだという。そして、消え去った女は二度と姿を見せる事はなかったということである。
和尚は、噛み殺されたタヌキをねんごろに葬り、後に残された茶釜と絵は寺宝として永く伝えられていたが、残念なことに明治17年の大火事により絵はすっかり焼けてしまったのだという。
いっぽう茶釜は、今でも大切に寺に残されて「文福茶釜」と呼ばれているとの事である。
いま、この物語の舞台となった東樹院には数多くのタヌキの置物と、その時の女を模したとされる女性像が飾られており、近くの幼稚園児に聞かせるの格好の昔話になっているようである。
この早春の境内で、一人静かにタヌキの置物に向かい合うとき、かつては人々にとって身近な存在で、どこにでもいたであろうタヌキたちがこうして親しまれておきながら、時代の流れとともにその姿がすっかり失われてしまったことに、果てしない時の流れのはかなさと人間の罪深さを感じずにおれないのである。