横浜市営地下鉄上大岡駅前の鎌倉街道を南下し、関の下交差点を左に曲がると笹下釜利谷道路に出る。
この交通量も多い笹下釜利谷道路を南下すると、打越という交差点の所には北条実時ゆかりの鰻井戸があるが、さらに南下していくとマクドナルドの向かい側辺りに地元の方々が眠る墓地への入口がひっそりとあるのがわかる。
この墓地への入口を上っていくと、その片隅には無残にも打ち砕かれ、そのお顔すら判別することも難しい青面金剛像が一基だけ、ぽつんと建っているのが見て取れるのである。
この石仏には頭上に日月と雲をあらわした造形がわずかに残り、その足元には邪鬼がうずくまり、その下には見ざる・言わざる・聞かざるの三猿がわずかに残されている。
これは、港南歴史協議会の資料によれば、この青面金剛像は廃仏毀釈を2度受けたあわれな青面金剛像なのだという。
日本が江戸から明治に変わる変革の時代、神道を国教として近代国家への道を歩み始めた明治の日本。
日本各地でみられた日本独自の神仏習合、すなわち神道と仏教の境があいまいだったことを改め、それまで一体化していた神社と寺院を徹底的に分離する政策が始まった。
その結果、仏教の因習を色濃く残す石仏や寺院の伽藍などは日本中で破壊され、いまでも首のない地蔵や顔面を削られた石仏が日本じゅうに多く残されており、近くの東樹院の切断された不動明王像などもその一例であろう。
その後、時はたって昭和20年。
日本は連合国軍に無条件降伏し占領下となると、進駐軍の心象を悪くするであろう物はすべて焼却・廃棄するようにという指示のもと、この青面金剛像も地元の住民により表面が何だか分からなくなってしまうまでノミで打ち砕かれたのだという。
このような動きは日本中で頻発し、ことに東京湾要塞の一角を担っていた神奈川県と千葉県では顕著で、このことを考えれば廃仏毀釈は明治と昭和の2度にわたって行われた、とも言えるのである。
この青面金剛像の脇を見ると江戸中期、10代将軍徳川家治公の治世である安永6年(1777年)との文字がある。
さらに、その反対側にはしっかりと「庚申講中」の文字が残されている。
一目で仏像と分かる表面は打ち砕いたが、進駐軍の兵士には漢字は読めないとの事でそのまま残されたのであろうか。
その反面、墓地の中にはお姿が美しいまま残された墓石などがそのまま残されているのが対照的で、時代の流れに翻弄され、かつては篤く信仰されたにもかかわらず、その子孫たちの手によって打ち砕かれた青面金剛像に一抹の哀れさを感じるのである。
かつて、この近辺は東京湾要塞の一部として地図からも抹消され、常時馬に乗った憲兵が巡回し、写生や散策も自由に出来ないとされていた。
明治、大正、昭和と日本が大きく変わっていく中で、無残にも2度にわたる廃仏毀釈を耐え抜いた青面金剛像は、今も変わることなく、この街に暮らす人々を見守り続けているのである。