小田急線本厚木駅の近くを流れる相模川を北上していくと、ほどなく中津川という川に分かれる。
その中津川を果てしなく遡上していくと、ここは神奈川県だろうかと見まがうばかりの田園地帯が続く。
やがて、愛川町中津というところに着くが、その一角には田んぼに面した小さな鳥居が木々に隠れるようにして建てられており、相当に気を付けていないと見落としてしまうのであるが、その奥には若宮八幡という小さな神社が地域の方々によって守られている姿を見ることができる。
綺麗に真っ赤に塗られた鳥居には、やはり真っ赤な板に白文字で書かれた真新しい「八幡宮」の扁額がうやうやしく飾られ、境内は雑草こそ生い茂るものの綺麗に掃除されている。
ここの狭くて小さな階段を上がれば、やはりそこには真っ赤に塗られた新しいお社があり、いかに地域の方々から大切にされているかをうかがい知ることができる。
もともと、この辺りは徳川家康の旗本であった太田善太夫吉正(おおたぜんだゆうよしまさ)の陣屋があったところと伝えられている。
太田善太夫は元和2年(1615年)にこの地を所領として拝領し、この一帯に陣屋を構えたといわれているが、その記録は多くはなく謎な部分も多い。
現在はこの周辺には「陣屋」という字が残ってはいるが、その陣屋があったことを裏付ける遺構はまだ見つかっていないという。そもそも、これといった調査もされていないのであろうか。
この境内には、大きく抱えるような丸い石があり、これこそが太田氏の館跡を唯一いまに伝える力石と呼ばれる石である。
その重さは百貫目、現在の単位にして375キロもあり、草相撲の際には勝利を祈念してこの石に燈明を献ずる習わしがあったという。
その後、元禄10年(1697年)まで太田氏の領地として栄えたのである。
この川沿いの低地に陣屋があったものかとも思うのだが、この背後の裏山は小高くなっているし、防御を要とした城郭ではなく陣屋であったということから、ここにあった可能性も否定できない。
なにより、往古の昔にここで筋骨隆々とした逞しい若武者たちがもろ肌を脱ぎ、手に手に燈明をもってはこの石に授けて勝利を祈願し、君主の見ている前で相撲を取っては手柄とせんとしたのかと思うと、物言わぬ石にも深遠なる歴史が秘められていることをひしひしと実感するのである。