真鶴町の岩郵便局の裏手、住宅に囲まれたひっそりとしたところに、ひときわ目立つ真っ赤な鳥居が建てられているのが分かる。
これは岩のお天王さんとも呼ばれている津島神社で、祭神は素佐之男命(案内看板のママ)であり、寛文4年(1664年)に勧請されて以来、疫病と厄災難除けに霊験あらたかとして多くの信仰を集めたのだという。
だが、時代が経つにつれて長年の風雨にさらされ、損傷が激しくなってきたことから、時代が平成から令和へと変わる御代替わりの御大典事業の一環として鳥居の再建を筆頭に境内を整備し、愛知県津島市の津島神社から再度御分霊をいただいて、祀りなおしたものであるという。
境内には鳥居に見立てた鉄骨が建てられ、その奥には石祠が3基と石灯籠が1基、大切にまつられているのが見て取れるのである。
まさに日本の神社の原風景とも言おうものであろうか、豪華な社殿もご立派な御朱印もないのであろうが、ずっとこの地で村人とともにあり続け、村人の暮らしを見守ってきたのであろう。
その裏山につづく細い獣道を登っていくと、ここには石造りの古い鳥居が建てられている。今回の旅で、本当に見たかったのは実はこちらである。
この神社の珍しいところは、普通の神社では狛犬であるところが、その代わりに天狗が入り口の両脇に建てられているところである。
どちらも相当に古いもので、まさに「天狗の鼻はヘシ折られ」てしまっているのであるが、流れる頭髪、服のしわ、細かく表現された足の爪から歯の一本一本まで、その緻密な石細工には目を見張るものがある。
おそらく、これは「阿吽」のうち「阿」に該当するものであろうか。
立膝のこちらは、カラス天狗のようである。
くちばしをキュッと噛みしめているから、これは「阿吽」のうち「吽」に該当するものであろうか。あくまで憶測であるが。
これほどの見事な石細工であるから、おそらく名のある石工の作かと思いきや、名もなき無名の石工であるのか記録が全くないというのが驚きである。
その両天狗の奥には、石祠が一基だけ鎮座されており、説明版もなにもないので、詳しいことはわからない。
地域の方に詳しいお話しをうかがっても、
「神様に名前なんてないよ!! 神様は神様でしょう」
「いつからあるって? 昔から!! あたしが小さい頃は、よくあそこの下に宝物隠してたから!! アッハハ!!」
といった程度のお話しか聞くことができなかった。
しかし、ふむ、実はこれが神様とは何なのか、という問いにもっとも正確に答えているものかもしれない。
大きな神社や一之宮などの神様ならいざ知らず、街中の住宅にまぎれるように建ち、村人の生活に密着した神様というものは、案外それでいいのかなと思ってしまうのである。
そう、詳しい名前も、詳しい年代も、どんな神様でどこから勧請されたのかも。
そんなことはどうでもよいのかもしれない。
確かなことは、ずっとずっと昔からここにあって、この岩地区の人から家族のように、隣人のように愛されて、大切にされてきたということ。
それが、神様というものの本来のあるべき姿なのかもしれない。
この石祠は何という名なのか。
いつ、だれが、何のために勧請したものなのか。そんなことよりも、この地域の方々がこの神様に向けた思い、敬意、親近感。
いかにして愛され大切にされてきたか、そちらの方が重要ではないかと思うようになってきた。
この小高い丘の上から、夕暮れに染まっていく岩の集落と、その中から聞こえてくる人々の営みの声を聴いているとき、もの言わぬ小さな石祠が歴史と民話というものの真意を教えてくれたような気にさせられたのである。