三浦半島を縦断する三崎街道を原付で南下していきました。
とちゅう、三崎警察署をすぎて米屋のある所を曲がっていくと、細い道筋に小さな鳥居を構えたこぢんまりとしたお社が見えてきます。
これが三崎の妙義神社のお社です。
「妙義神社」と聞いて思い出すのは、赤城山、榛名山とともに上毛三山とうたわれ、奇石ともいえる岩肌をむき出しにした妙義山と、そのふもとに鎮座されている妙義神社です。
そんな妙義神社が、なぜ遠く離れた三浦市に勧請されているのだろうかと不思議に思います。
この神社は正式には「原妙義神社」といって、地元の方々は親しみをこめて「妙義さま」と呼んでいます。
しかし、その時代がいつのことであるのかははっきりとしていないそうです。
この原妙義神社で特筆すべきものは、境内に残された手水鉢でしょう。
この手水鉢には明治37年~38年の日露戦争に従軍し、無事に凱旋した原の里人が奉納したことが記されています。
この原妙義神社は開運と商売繁昌の霊験あらたかとされ、他にも火伏や縁結び、農耕、学業の神としても崇められています。
特に、この境内にある御神木である銀杏の木から、皮の一部をはいでお守りとすれば受験の守り神となるとされています。
これは、学問の神様である菅原道真公が御祭神であることから来た信仰でしょうか。
群馬県にある妙義神社の創建は宣化天皇2年(537年)とされ、その御祭神は日本武尊・豊受大神・菅原道真公・権大納言長親卿と多岐にわたっています。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は東征のなかの数々の神話をいまに伝えて、日本を代表する神様であるうえに、豊受大神は伊勢神宮(外宮)の神様で、食べ物をつかさどっているとされています。
さらに、菅原道真公は民間では「天神様」と崇められて学問の神や書道の守護神です。
このように、日常の生活に密接に結びついた神様ですから、むかしも今も原に住む人々の信仰を集めてきたのでしょう。
このような小さな無人の社でも、いつもきれいに掃き清められて何かしらのお供え物がされています。
いま、妙義神社の小さな社殿の前にひざまづき、神前に祈りをささげるとき、その傍らに自然石の力石が置かれていることに気がつきました。
かつて、この境内に村の若者たちが集まっては、それぞれこの力石を持ち上げて賑やかに力比べをした事でしょう。
いま、時代は変わり、もはや力石を持ち上げる者もいなくなりましたが、かつての賑わいの記憶は確かに鮮明に、そして瑞々しく今に語り継がれているのです。
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