神奈川県の北西部には、県民の水がめとなる人造湖がいくつもあります。
いつも満々と水をたたえて県民の豊かな生活を支え、またレジャーの場所として、景勝地としても神奈川県民からは大いに親しまれています。
そのうちの一つが「相模湖」で、昭和22年(1947年)に完成した相模ダムによって相模川をせき止め、京浜工業地帯への工業用水や県内に供給する水道水を確保し、さらに水田へも水を安定的に供給するなど、県内の上水道水源の約17%を占めて県民の生活に大いに役立っています。
さて、先ほども書いたように、もともと相模湖は川だった人造湖なわけですが、その川に沿うようにして旧甲州街道が形成され、小原宿、与瀬宿、吉野宿、関野宿と宿場町が形成されていました。
特に吉野宿には、飯盛女がいた旅籠屋による「吉野遊郭」が出来たということで、旧甲州街道を通る旅人たちや生糸や小麦を売る行商人たちの憩いの場としても大変賑わったということです。
今となっては時代も変わり遊郭は無くなりましたが、この近辺にはラブホテル街が形成されてかつての過去の名残をとどめているかのようです。
さて、そんな相模湖のほとりに、立派な鳥居が設置された岩があるのが目に入りました。
この岩はちょうど相模湖を一望できる広場の片隅にあり、しかし特に地図などにも大きく掲載されている場所でもないせいか訪れる人もなくひっそりとしています。
この岩をよく見ると、岩の頂上には小さな石の祠が乗せられて、また周囲をぐるりと囲むようにして注連縄が結び付けられています。
この岩は「御供岩」(ごくいわ)と呼ばれ、相模湖八景にも指定されているもので、聞くにも不思議な逸話を秘めているのです。
その昔、この里に「ヤヨ」「キヨ」という二人の若者がおりました。
ある晴れた日に相模川にて漁をしていると、網の中に御神体が引っかかっているではありませんか。
この二人はすっかり恐れ尊みて、御神体を引きあげては二瀬越という川辺の大岩にのせたという事から、この岩は御供岩の名がついたのだそうです。
その後、御神体は村の中段に祠を造って丁寧に祀られましたが、これでこの里も守られると安堵したのもつかの間、この里は突然の疫病に悩まされ、また度重なる火災で人々の暮らしにも大いに影響したといいます。
里人たちが額を突き合わせて話し合った結果、これは尊き御神体を不浄の地に祀ったのが原因であろう、という結論になり場所を移しました。
その後、天和2年(1682年)にさらに移転して現在地に奉遷した、と「新編相模国風土記」にはありますが、それが現在の与瀬神社です。
その後、それまで災厄が続いていた里は嘘のように平和になり、それからというもの「与瀬のごんげんさま」は街道ぞいにあって交通の便も良かった上に、霊験あらたかであるとして多くの参拝人が訪れることとなり、大いに発展して現在の姿となります。
この「ヤヨ」「キヨ」の子孫は現在も続いており、精進衆と呼ばれて祭事に奉仕しているそうです。
この与瀬神社の例大祭には、かつてこの 「御供岩」でも神事が行われていたそうです。
しかし、相模湖が出来て「御供岩」が湖底になってしまうと聞いた有志の手により丁寧に遷され、現在の相模湖を見下ろす湖畔の一角へと遷されたという事です。
この御神体は、いったいどこから来たのでしょうか。
神奈川県内で歴史と民話めぐりをしていると、川や海の水の中から御神体や仏像が出てきた話がたくさんあります。これもひとつの地域性ということでしょうか。
実に不思議なことです。
いま、満々と水をたたえる豊かな相模湖の湖畔にたち、御供岩のわきで静かな湖面を眺めるとき、かつてここに生きた二人の若者たちが御神体をみつけては熱心に祈りをささげる姿が目に浮かぶようで、ここにも時代の流れというものをそくそくと感じるのです。