JR戸塚駅前の県道22号線を南下していくと、戸塚町という交差点の脇にあるのが冨塚八幡宮である。
富塚とは「とみづか」と読ませ、これこそが現在の戸塚の由来ともなった神社である。
この神社の期限は古く、平安時代にまでさかのぼる。
永承6年(1051年)から康平5年(1062年)にかけて奥州を揺るがした「前九年の役」を平定するべく、源頼義・義家の親子が奥州に下る途中に、当地に露営した事があった。
その折、夢枕に応神天皇及び富属彦命の神託を賜り、その加護により戦功を立てることができたという事で、延文4年(1072年)に社殿を遺り、応神天皇及び富属彦命を御祭神として勧請したのが始まりとされる。
富属彦命とは「とつぎひこのみこと」と読ませるが、相模国の東部一帯を支配した相武国造の孫と伝えられて、神社裏手に富塚と呼ばれる古墳が築かれ、いまもここに眠っているのであると伝えられている。
この冨塚こそが現代に伝わる「戸塚」の地名の由来となり、江戸時代に発達した戸塚宿から始まって昭和14年に戸塚区が誕生することとなった。
現在は泉区・栄区・瀬谷区も戸塚区であったので、実に広大な地域にわたってこの地名が使われることとなったのである。
かつて、平安時代のころには、この近隣には戸塚(富塚)一族が住んでいたと伝えられている。
この戸塚一族は一族の守護神として冨塚八幡宮を篤く信仰していたものの、鎌倉時代に二階堂家の家臣に編入され、さらに二階堂家が静岡の掛川に移封されると、一緒に移り住んでいったことから現在でも掛川のあたりは戸塚姓を名乗る家が多いとされている。
しかし、戸塚姓・富塚姓を名乗る人々にとっては、この冨塚八幡宮の周辺が一族の発祥地であり、祭神の富属彦命は変わらず戸塚一族を守り続けており、この冨塚八幡宮では全国の戸塚氏・富塚氏の守り神として特別に祈祷をしているのだという。
いま、この静かな境内に一人立ち、古墳の傍らに厳かにたたずむ社殿と庚申塔の群れに手を合わせるとき、この地を一族発祥の地として栄えていった戸塚一族の姿と、街道をゆく旅姿の人々が手を合わせていく姿が思い起こされるようで、ここにも歴史の奥深さをしみじみと噛みしめるのである。