鎌倉のはずれ、浄土宗の大本山である光明寺の裏山を原付で走っていると、第一中学校の辺りは小高い丘になっており、眼下に美しい材木座の海岸を眺める事が出来る風光明媚な道に出る。
そこから少し行ったところに、高さが4メートルもあろうかという立派な宝篋印塔が数え切れぬほど立ち並ぶ一角があり、その立派さとは裏腹に訪れる人も少なく寂しい場所ではあるが、こここそが江戸時代に日向国(現在の宮崎県)の大名であった延岡藩主内藤家の墓所と伝えられる鎌倉市の指定史跡なのである。
内藤家は延享4年(1747年)から明治4年(1871年)の廃藩置県までのあいだ日向延岡藩を治めた譜代大名で、その石高は7万石であった。
内藤家はもともと藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の末裔であるという。
藤原秀郷は平安時代に平将門を追討した、武勇誉れ高き人物であり、奥州藤原氏や鎌倉比企氏などの源流ともなった名族であるが、秀郷から時代が下ってから内舎人に任ぜられた事をもって内舎人の「内」と藤原氏の「藤」をとって内藤という苗字を名乗りはじめたのが最初である。
さらに時代が下り後の徳川家につながる松平氏に仕えたことから、徳川家康の下で軍功をたて上総佐貫二万石に封ぜられ、そこから一族は大いに繁栄して傍流も増え、「日向延岡」を筆頭に「信濃高遠」「志摩鳥羽」「越後村上」「三河挙母」など庶流が増え続けたのである。
みうけんも昔から色々な石仏、墓石を見てきたが、比較的最近の江戸期のものであるとはいえ、この内藤家の墓地に残された地蔵尊はどれも保存状態が極めてよく、そのお顔に表されたどこか淋しくてもの悲しそうな表情は、この世の道理の無常を嘆いているかのようである。
また、写真ではよく分からないのだが、宝篋印塔の一基一基が実に見上げるような大きさであり、関東大震災の時などは倒れなかったのであろうかと心配してしまう。
これだけの石を石切り場から切り出して運び、石工の手により彫り上げられて運ばれてここに安置されたのである。これらすべて人力によるもので、機械に頼り切った現代では到底なしえないものであろう。
また、ある一角には観音像が連続して建立されており、よくよく眺めてみれば、そのふくよかな腰つきと丸みを帯びた脚線美が美しく、戦乱の途絶えた江戸時代の天下泰平と、この時代の平和な時の流れと豊かさを表しているかのようである。
内藤家の墓地は現在光明寺の管轄であり常時鎖錠されているが、光明寺に申し込めば見学は可能であるが、墓地には訪れる人もなく、雑草が生い茂り、ただ一株のタンポポが寂しげに咲いていたのが実にはかないものである。
江戸幕府の締め付けの中、藩を維持するのは大変なことのようであったろう。
戦国時代のように他の領地に攻め入って領土を拡大するわけにもいかぬ。何か幕府の気に入らないことがあれば、すぐに召し上げの憂きにあい、そうでない時も度重なる参勤交代と出資で藩の運営は楽なものではなかったようである。
いま、この訪れる人もまばらな墓地の片隅に立つと、遠く九州から参勤交代で江戸まで通ってきた内藤家家中や家族たちの苦労と、この海を見下ろす高台に眠る藩主たちの嘆きが聞こえてくるようで、ここにも遥かなる時流の流れをそくそくと感じるのである。