田園風景をにわかに残す横浜市泉区の上飯田地区は、昭和に入ってからは団地の街としても発展し、多くの外国人移民を受け入れてきた歴史も持っている街です。
その上飯田団地の16号棟と上飯田の神明神社の前を通り、上飯田公園から飯田神社へと通じていく道がかつて鎌倉道(上の道)と呼ばれた道です。
鎌倉時代に、源頼朝が那須野や浅間山あたりへ狩りに行く時に通った道であるとも、また弘安5年(1282年)に死期が近づいた日蓮上人が身延から池上へと旅をしていく中で通った道であるとも言われています。
もともと、この上飯田団地があったところは一面の水田でした。
神明社の鎮守の丘を切り崩し、その土を持って田を埋め立てて造成されたのが現在の上飯田団地です。
この神明社の起源は定かではないものの、伝承では江戸幕府の第8代将軍であった徳川吉宗の治世のころの享保年間(1716年~17735年)、あまりにも頻発する境川の氾濫を憂いた村人たちが祀ったのが起源とされています。
現在では天照皇大神・応神天皇・春日大明神をお祀りしています。
もともとは、この神明社も50メートルほど東側の小高い丘の上にあったといいますが、昭和41年3月4日の造成工事で現在の位置に移転し、今も上飯田団地に住む人々を見守っています。
さて、ここから250メートルほど南側、上飯田地域ケアプラザの脇の墓地へとやってきました。
この墓地の真ん中には小さなお堂があり、その中には金色に光り輝く阿弥陀如来さまの立像が納められているのが見て取れます。
この小さなお堂があるところは、不思議な伝説を今に残す鶴島山 小曲寺(つるしまさん しょうきょくじ)というお寺があったところでした。
中に納められた阿弥陀如来さまも、もともとは小曲寺のご本尊さまだったということです。
合掌礼拝をして、拝観させていただきました。
この敷地内には、この近辺の旧家である小曲(こまがり)家代々の墓地が並んでおり、さらに数多くの石仏や江戸時代の墓石などが並べられています。
その数は、ざっと数えただけでも30基も50基もありそうで、小曲家の方々がここで先祖の霊を大切に弔っていることがわかる神聖な場所です。
ここにあった小曲寺も小曲家の菩提寺だったそうです。
言い伝えによれば、いつの時代か定かではないものの、寺の本堂がだいぶ傷んできたので、ご本尊であった阿弥陀如来さまを現在の緑園都市駅近くの西蓮寺(さいれんじ)に預けたことがあったそうです。
新しい本堂ができるまでの仮住まいの予定だったのですが、夜になると小曲家の長の枕元に阿弥陀さまがお立ちになり、「どんな粗末なお堂でもよい。どうか、早く建てて元の場所へ戻してほしい」と嘆願されたというのです。
もともとは立派な本堂にするはずでしたが、小曲家の長は早速皆を集めて事の次第を相談し、とにかく早く仕上がる小さなお堂を建てて阿弥陀さまを西蓮寺からお迎えすることとし、供養をして現在のようになったということです。
敷地内には石塔に交じって、卵型の墓石である「無縫塔」も見受けられます。
これは多くは僧侶の墓として使われた形式ですが、この無縫塔も例にもれずに「明和五戊子年三月十四日 向誉西傾法子 位 俗名 鈴○○○ 」と、僧侶かそれに準ずるものであることを示す戒名が陰刻されています。
明和5年(1768年)は江戸幕府の第10代将軍、徳川家治公の治世のころで、このころにはこの地に小曲寺があり、そこで読経三昧を送った僧侶の墓なのかもしれません。
また、この敷地内には「鶴島弁財天」というものもひっそりと残されていました。
弁財天は水源地に多く祀られたものが多いので、かつて、ここにため池や用水池などがあったのでしょうか。
いま、夕暮れも押し迫る静かな晩春のの日差しのなかで、静けさのみが支配する小曲寺の跡地を歩くとき、かつてこの地で読経三昧の日々を送った僧たちの読経が今によみがえるようで、数百年の時の流れがまるで昨日のことのように思い出されてくるのです。
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