本厚木から愛川を経て相模湖に至る幹線道路、国道412号線をずっとずっと北上して行きます。
とちゅう、長竹カントリークラブを過ぎ、串川を渡って串川駐在所のあたりまでくると、左手の路傍にたくさんの石仏が集められているのが見えて、急遽原付を引き返して拝観に行きました。
何よりも目を奪われたのは、一体の観世音菩薩像です。
その観音様は正面に「百番観世音」と大書きされ、わずかに紅をさした唇を柔らかく結び、うつむいて道を歩く人々を見守っているかのようです。
ここは来迎寺のちょうど西側にあたるところで、里墓の地となっています。
このお墓の周りをお掃除されていた地元の方から、かつてこの近くに「ナンツウジ」というお寺があったところと聞いたことがある、というお話を頂きました。
さっそくその場で江戸末期の地域史料である「新編相模国風土記稿」を開いてみると、「津久井縣 毛利庄 長竹村」の欄に
南通寺
光明山と号す。根小屋村の雲居寺の末寺。本尊は阿弥陀。
とだけ書かれているものの、それ以上の詳しいことはわからず、またここが南通寺であったかどうかも断言できかねるものがありました。
しかし、このように大きく垂れた眉の中に秘められたふくよかな顔立ちと均整の取れた造像は目を見張るものがあり、その秀逸さと荘厳さは言葉で言い表せるものではありません。
路傍の石仏でここまで感動させられたのは、厚木市の長福寺の魚籃観音以来となります。
ここに出てくる百番観世音というのは、だいたいの場合は近畿の西国三十三観音、秩父の秩父三十四観音、関東全域の板東三十三観音を巡拝した記念にと建立された場合が多かったようです。
この百番観音像の願主は「佐藤利七、正宗、弟 佐藤彦兵衛」。
いつ頃の人かは分かりませんが、信仰心のままに長い長い道のりを歩いて巡った観音霊場の巡拝は、どのようなものだったのでしょう。
その時の様子は、今もこの観音さまの穏やかなる記憶の中にとどめられている事でしょう。
他に目についたのは、独特な筆致の「南無阿弥陀仏」の揮毫石塔。
文政4年(1821年)、江戸幕府の第11代征夷大将軍、徳川家斉公のころです。
「新編相模国風土記稿」では南通寺の御本尊さまは阿弥陀如来であったと書かれていたことから、ますます関連性を感じずにはおれません。
その横には同じく自然石で作られた二十三夜塔。
こちらの由来は詳らかではありませんでした。
また、神奈川の「大山みち」でよく見かけるような不動明王の道しるべもありました。
下の台座にははっきりと「西 上原道 東 大山道」と読み取れます。
これは比較的新しく、明治27年(1894年)1月のものです。
まだ日本では日清戦争が起きる少し前でした。
明治の廃仏毀釈運動もだいぶ落ち着いたころで、民衆の中にも信仰心がもどってきた頃でしょう。
後ろの火焔はペンキで彩色されており、この里人の素朴な信仰心と、このお不動さまに対する愛着を感じさせます。
この裏手にはひっそりと墓地が広がっており、その墓地の脇には古びたトタン張りの建物が建っています。
そのトタンの建物その脇に祠がある事から、ここがかつて寺院であったか、実は今でも寺院であるかもしれないことを妄想させてくれます。
そう、このように一見して小屋にしか見えないような無住のお寺は意外とたくさんあるものです。
このあたり、冒頭で紹介した地元の方にもう少し踏み込んで聞いておけばよかったな、と思います。
いま、寂れた墓地の脇にたたずむ優美な観音像に香華を手向けて手を合わせるとき、その優し気な微笑みのなかにどこか物憂げさを感じるようで、数百年に渡ってこの地を見守り続けた観音像の語り掛けが聞こえてくるような気がしたのです。
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