小田原市の久野交差点から西側に伸びる古道を原付でたどっていると、京福寺を過ぎたあたりで右手にたたずむ小ぢんまりとした観音堂を見つけました。
このお堂は一般的な地図にも載っておらず、住宅地図では個人名と並んで「大畠観音」と記載されているのみであり、入り口には門柱も看板もない簡素なところです。
境内に入ると、その正面にあるのは一件のお堂のみでした。
その脇には堂守をされている方がお住まいなのか、一軒の家が建っているのが見て取れます。
この大畠観音堂について、江戸後期の地域史料である「新編相模国風土紀稿」にはこれといった記載はありません。
ただ「観音堂」とのみ表記されているものがそうなのか、それとも比較的最近になって建立された観音堂なのかすら知る事はできませんでした。
堂前には大きくて古びた鈴がかけられ、観世音菩薩を安置する観音堂を意味する「大悲閣」の扁額と、比較的新しい「南無観世音菩薩」の扁額が掲げられています。
これらは、ここが間違いなく観音堂であることを物語っています。
この観音堂に合唱礼拝していると、背後から呼びかけられるような気配を感じ取りました。
ふと振り向くと、そこには釈迦如来と思われる立像を本尊として種種雑多な仏像が居並び、さながら現実世界にいながらにして浄土曼荼羅の世を眺めているかのような錯覚にとらわれる光景が広がっていたのです。
先ほども書いたように、御本尊は釈迦如来と思われます。
右手を上げた施無畏印が相手の畏れを取り除き、左手を下げた与願印が相手の願いを聞き届けんとする印相をしており、仏道の世界に馴染んでいない衆生をあまねく救い出さんとする広大無偏の慈悲を表しているのです。
また、脇には地蔵菩薩の立像を従えているが、地蔵菩薩もまたこの世のありとあらゆる苦境に思い悩む衆生を救い出す功徳を持っていると信仰されています。
その周囲には、ほとんどと言ってよいほどの割合で観世音菩薩が居並んでるのが面白く感じられました。
それぞれお立ちになっているお姿、お座りになっているお姿、片膝をついて物思いにふけるお姿など様々なお姿をされています。
こうして、この種種雑多な石仏を眺めているだけでも、ここにおられる観音様の心情についていろいろと想像できて楽しいものがあります。
これらは、いつ、どのようにしてここに集まってきたのでしょう。
その多くは材質、作風などが大きく異なっていますから、もともと全てがここにあったものではないと思います。
開発によって行き場を失った石仏たちがここに集められたのか、それともここを守る方々の意志によって意図的に集められたものなのか、その真相は観音様のみぞ知る、というところでしょうか。
ただ、観音像が多く集められているところに、ここに関わった方々の観音様に対する愛情が伺えます。
いま、夕陽かたむく晩秋の観音堂で、足元から聞こえてくるコオロギの鳴き声に合わせるように風が凪ぎ、観音様の脇に生える草花を揺らしています。
それはまるで、ここを訪れる人たちに対して何かを語りかけている観音様の声をだいべんされているかのようでした。
このとき、夕陽に照らされる一体一体の観音像は不思議と神々しさを増し、とても神聖な空間を作り出していたことに感動を禁じ得ず、手にした数珠に心を込めて延命十句観音経をお唱えしたのでした。