正式には海向山 金蔵院 岩松寺という高野山真言宗のお寺です。
近くにあって気にはなっていながら、今までなかなか訪れずにいたお寺です。
このお寺は御本尊さまとして一木造りの薬師如来さま(安阿弥作)をいただくお寺で、京都高山寺の明恵(みょうえ)上人より与えられた薬師如来像を安置すべく、嘉暦3年(1328年)に鎌倉幕府の第3代執権をつとめた北条泰時が磯子と岡村の境に霊雲山龍錫寺を創建したのが始まりとされています。
それからしばらくたった嘉暦3年(1328年)のこと、理空上人がこの地に中興し、海向山 金蔵院と改名して今に伝わっています。
このお寺は多くの札所としても親しまれており、東国88ケ所霊場の48番、横浜磯子七福神の弁財天担当であるほか、かつて盛んに信仰された横浜市内観音霊場の22番としても信仰を集めていたということです。
観音妙智力 能救世間苦(かんのんみょうちりき のうくせけんく)
この観音堂は、もともと妙義神社の護摩堂であったものが昭和48年に移築されてきたもので、棟札には安永8年(1779年)の棟札が残されています。
安永8年といえば江戸幕府の第10代将軍、徳川 家治公の治世の頃です。
観音堂の左側は、こんな横穴がありました。
とても気になったので入ってみることにしました。
こちらは琵琶をお持ちになっていますから弁財天さまでしょうか。
この横穴はブロックで固くふさがれていますが、もともとはもっと奥まで続いていたようです。
田谷の洞窟のように、むかし修行のために掘ったものか、それとも戦時中の防空壕かなにかだったのでしょうか。
次回訪問した時に聞いてみたいと思います。
鮭塚を囲む玉垣には、魚河岸の名前がズラリ。
いかに水産関係者から篤い信仰を受けているかが見て取れます。
さて、みうけんは、お寺に訪問した時は必ず無縁仏さまにお参りすることにしています。
よく、「無縁仏に手を合わせてはいけない」とネット上ではささやかれたりしていますが、みうけんが懇意にしているお寺の御住職のよれば、そんなことは全くなく、むしろ積極的に供養してあげて下さいという事でした。
というわけで、今回も無縁仏さんに合唱礼拝。
たくさんの仏さまがたくさん集められた、ありがたい光景です。
中には、大きく摩滅してしまったものもあります。
このようにひどく摩滅してしまった石仏は、海沿いの街で時折見かけます。
しかし、この石仏は明らかに光背部分が磨滅していないこと、また足の部分だけがきれいに残っていることから、何らかの理由をもって人為的に削り取られた可能性も捨てきれません。
また、お花塚というのもありました。
碑文によれば
花を愛し、花に感謝し、花を供養する悲願をもって横浜華道協会の創立五十周年記念行事として協会理事及会員を中心に浄財を募りすべての花木に感謝と供養の心をこめて、金蔵院の境内にお花塚を建立することになりました、金蔵院は横浜の、一花人茶人にとって深いえにしがあり、鎌倉時代以来の古い名刹であります。
美しい草木にかこまれた日本国土の自然の中にあって伝統芸術の華道に精進するいけ花人は常にめぐまれた人生に感謝し、お花塚建立の限りない愛情の心をもっていけ花を通じて生活文化の向上に寄与したい念願であります、金蔵院の住職真田有範師はこの記念行事に終始あたたかい御協力をいただき感謝に堪えません この事業に御協力賜りました各位の御厚情に御礼申し上げます
昭和五十三年六月 横浜華道協会 理事長 小高一門
とあります。
せっかくですので、御朱印を拝受しました。
力強い筆遣いの御朱印で、実に達筆!!
磯子観音の御印が印象的です。
弁天様の御朱印も拝受しました。
御宝印は琵琶をあしらっています。
ひさびさに頂いた御朱印が実に立派なので、感動すら覚えました。
知れば知るほど奥深く、知れば知るほどありがたい磯子観音の観音妙智の力。
これからも磯子区に住む人々と、たくさんの信者たちに慕われながら、香華の香りも詣でる人も絶えることなく、静かに人々の生活を見守っているのです。
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