三崎口駅前から駅前の三崎通りを南下し、三戸入口の交差点から御用邸道路へ入っていきます。
大きく弧を描いて走る御用邸道路を抜けたところにあるのが、浄土宗寺院で阿弥陀如来さまをご本尊にいただく、龍徳山 庄司院 光照寺です。
室町時代後期の永享2年(1430年)に、三徹上人によって創建された歴史のあるお寺で、以前の記事でも紹介させていただいた事もあります。
このお寺は三浦三十三観音霊場の1番目の前にある「番外札所」とされています。
この観音様は観音信仰の巡礼旅をお手引きする「お手引観音さま」として信仰され、三浦三十三観音の巡礼を始める方は、まずこの「お手引観音さま」からめぐり始めるのが良いとされているそうです。
この観音様は江戸時代に編纂された地域史「新編相模風土記稿」の中で行基作と伝わる、長さ一尺八寸五分の長さの聖観音像の立像で、別名「かめくり観音さま」とも呼ばれ、不思議な言い伝えが残されています。
むかし、この村に進藤某という信仰心の篤い長者が住んでいました。
この長者はたくさんの牛や馬を飼っている金持ちで、いつも牛や馬を野原に放し飼いをしていたそうです。
ある日の夜のこと、長者の夢の中に貴人の姿をしたものが現れて「お前は日ごろから熱心に信仰しているので教えよう。朝早く、野に行ってみるとよい。さすれば尊像が近づくであろう」と告げてきたのです。
この夢に飛び起きた長者は、いてもたってもいられずに、まだ夜も明けないうちから野原に出てみましたが、どこにも尊像など現れては来ませんでした。
やがて、いつものように下男たちが牛を引いて野に出てくると、野の杭に牛の手綱を結んで帰っていったのです。
それを見て長者も帰ろうとすると、確かに杭に結びつけられた手綱がほどけ、牛がついてきたので長者は下男と一緒に牛を引いて野に戻りました。
すると、牛をつないでいたはずの杭の根元が光り輝いており、これを不思議に思った長者が杭を引き抜いてみると、その穴の底には金色をした観音様がお座りになっていたのです。
これにたいそう驚いた長者は直ちに身を清めて観音様をお取りになり、菩提寺へ納めました。
それから数日後、長者のもとにまた霊夢が現れ、「南の方向の寺に置いてほしい」というのです。
南の方向には、寺はあるにはありましたが荒れ寺で、今では詣でる人も絶えて久しいありさまでした。
そこで、長者は霊夢で「相模湾の魚をとって売り、それで再興しなさい」とお告げを受けたとおり、相模湾に船を出して網を投げ入れたのです。
網にはたくさんのイナダがかかり、そのイナダは味よく売れたために、荒れていたお寺はすっかり建て替えられて観音堂として再興し、その中に観音像は祀られて、いつしか村人からは「イナダ観音」「大漁観音」と呼んだ、と伝えられています。
そののち、観音堂も古びてくると雨漏りがするようになり、屋根の宝珠の上に甕を伏せてかぶせたので「瓶庫裏観音」(かめくり観音)の名でも親しまれるようになったと言います。
イナダ観音、かめくり観音、お手引観音といろいろな名で呼び親しまれている観音様ですが、現在は一回り大きな観音様の立像の中に納められ、光照寺の本堂のお厨子の中で人々の生活を見守っています。
この観音様の誓願の中に、「子宝に恵まれ、万民の病苦厄難を除き、富貴をあたえ給う」とあります。子宝、病苦、厄除け、そして豊作と大漁を約束する有難い観音様なのです。
もともと、この観音堂は光照寺から少し離れたところにありました。
それが、大正時代の関東大震災によって倒壊したために観音さまだけを光照寺の本堂に移し、現在は観音堂のあったところは駐車場になっています。
ただ、その片隅には不動尊の石仏が残されて、かつてここに観音堂があった昔の情景を偲ばせてくれています。
この光照寺の御住職が大変親切な方で、この時はいろいろなお話をいただき、すっかり長居してしまいました。
せっかくですので御朱印も拝受してきました。
いま、かつて観音堂があったという駐車場に立ち、かつてここにあったという観音堂の姿に思いを馳せるとき、その屋根の上に甕が伏せて載せられた昔日の情景が昨日のことのように思い出され、その観音堂でひざまづき、一心に祈りを捧げる里人たちの姿が目に浮かんでくるかのようです。
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