小春日和の気持ち良い天気の日、横浜からひたすらに原付を飛ばして道志川のほうまでやってきました。
ここまで来るとコンクリートに囲まれた日常を忘れ、どこまでも続く緑のさんざめくようなにぎわい、そこかしこから聞こえてくる小鳥たちの呼び合う声にうきうきしてきます。
ここ青根というところは、もともと津久井町というところでした。
2006年に相模原市に編入されてからは相模原市緑区の一部となりました。
どこまでも続く丹沢山塊の山並みと、眼下に望む牧歌的な風景が旅ゆく者の心を落ち着かせてくれます。
そんな青根の集落の中を原付で走っていると、小さな観音堂が見えてきました。
よく見ると、「音久和(おんぐわ)観音堂」という看板まで取り付けられています。
こんなところに観音堂があるとは。
まったく存在を知らなかったのでもともと取材する予定もありませんでしたが、どうも気になったので急遽Uターンして参詣させていただくことにしました。
看板にはしっかりと、「安産の神様」と書かれています。
しかし、その由来やいわれについては何も記載がありません。
さっそく、その場で歴史資料「新編相模国風土記稿」を開きましたが、この観音堂についてはよく分かりませんでした。
お堂は鎖錠もされていません。
中に掃除道具が置かれていたので、時折誰かが掃除をしに来ているようです。
中には由来のわからない聖観音菩薩像と思われる坐像がポツンと鎮座されていましたが、すっかりホコリもかぶっており、お供え物などもされていないようでした。
この坐像は、長い髪を高く結い上げている「宝髻」(ほうけい)という髪型をされています。
普通、聖観音菩薩さまであれば宝冠をかぶっているか、額に化仏(けぶつ)と呼ばれる小さな小さな仏さまを付けている場合が多いのです。
よく目をこらしてみると、この坐像のおでこのうえには小さな穴が2つあいています。
かつては、ここに宝冠などが取り付けられていたのかもしれません。
この木造の坐像は、黒いお顔に真白く光る眼が鮮やかで、どこか物憂げな表情をあらわし、固く結ばれた口と眼前を見据えるその表情は、まるでこちらに何かを言いたそうな感じもします。
また、製作者は何を思って彫ったのでしょう、そのノミの一刀一刀の力強い刻みあとが全身に残されて、まるで一心不乱に念仏を唱えながらノミをあてていった仏師の息遣いが今なお聞こえてくるかのようです。
そんな観音像と思われる坐像も、今となってはその由来も言い伝えも定かではなく、なぜこの坐像が「安産の神様」であるのかを調べるすべもありませんでした。
その由来を聞こうにも人通りもなく、ただかつて百万遍念仏などで使われたであろう、大きな数珠だけが無造作に置かれているのがどこかもの悲しさを感じさせます。
この音久和観音堂は、どのような経緯で建立され、どのような経緯でこの坐像がここに安置され、そして人々とどのような関わりを持って「安産の神様」と呼ばれるようになったのか。
その由来は今でも調べていますが、なかなか答えを見出すことはできません。
どうか、この記事を読んだ方の中で詳しいお話をご存じの方がいらっしゃいましたら、コメントでご教示くだされば幸いです。
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