自衛隊の武駐屯地の前の134号線を北上し、「佐島入口」の交差点から横須賀の西海岸沿いの道へと進んでいきます。
とちゅう、佐島漁港の真ん中にあるこんもりとした小山が目に立ちますが、ここはもともと「観音鼻」という海に突き出した岬のようなところで、この上には無人の観音堂がひっそりと立っているのを見つける事ができます。
この観音堂は、一般的には近くにある海照山 専福寺の境外堂とされています。
専福寺の歴史はたいへんに古く、天平9年(737年)に清波法師によって国分寺なる寺院が開基されたのが始まりで、それから800年近く後の永世9年(1512年)に浄土真宗に改宗されたお寺です。
江戸時代末期に編纂された地域資料である「新編相模国風土紀稿」、三浦郡 衣笠庄 佐島村の項には、以下のように紹介されています。
専福寺
浄土真宗。西本願寺の末。海照山と号す。本尊は阿弥陀。清波法師開基(天文十八年八月八日没)
観明寺
浄土真宗。専福寺の末。海照山と号す。本尊は十一面観音(長さ六寸、行基作)。糟屋兵部小輔、藤原清承が開基す。(清承は北条氏の家人なり。天定と諡す。その子兵部小輔某北条家の役帳に当地を領せし事を見ゆ)
また、観音堂の御本尊さまである十一面観世音菩薩の坐像は長さ6寸(18センチ)のもので行基の作とされています。
行基は奈良時代の僧にして高名な仏師であり、現在でも行基菩薩と呼ばれて広く崇敬されていますが、今まで見てきた中ではありとあらゆるお寺の仏像が行基作とされていて、個人的にはちょっと多すぎるのではないかなとも思いますがいかがでしょうか。
現在、この十一面観世音菩薩は秘仏とされていますが、横須賀市の公式サイトに写真が掲載されていたのでお借りしました。
この十一面観世音菩薩さまは、他とは違って額のところに特徴的な飾りがつけられており、頭上の十一面の顔がほとんど見えない珍しいものです。
また、しっかりと前方を見据えるその視線は煩悩に翻弄されながらも菩薩行との狭間に行き来する衆生のさまをしっかりと見つめておられるようで、どこかにふくよかな慈悲を感じながらも厳しめな表情をされています。
寺伝によれば、この観音さまは元々は「新編相模国風土紀稿」にもある「観明寺」の御本尊さまであったそうです。観明寺はもともと近くの馬骨の坂というところにありましたが、行基作と言われる観音像とともに焼失してしまいます。
寺伝では戦国時代の天文19年(1550年)、北条氏康の家臣として佐島と菊名を知行地として与えられていた糟屋兵部少輔藤原清承の請願を受け、当時の鎌倉仏師の第一人者であった大蔵法眼長盛によって造立された、とされています。
新編相模国風土記稿は江戸末期に編纂されたものですから、この時には観明寺の御本尊さまは大蔵法眼長盛の作であったわけです。
この十一面観音さまは平成12年3月に横須賀市の重要文化財に指定され、現在でも三浦三十三観音の第28番札所として信仰を集めています。
現在は毎年1月1~3日と17〜18日、7月17〜18日、8月は9〜10、17〜18日が御開帳とされています。
いま、他に誰もいない観音堂の境内を歩くと、お堂の裏手には誰のものとも分からない五輪塔が積まれています。
その積み方も何故か傘の部分を除いて積まれているのが印象的でした。
観音堂の眼前には遙かなる相模灘が広がる光景は昔からずっと変わらず、昔も今も観音さまが眺めてきた風景なのでしょう。
木々の合間から差し込む陽光と、木々を渡り歩くメジロの姿は昔と少しも変わる事なく、悠遠な時間の流れを今に伝えています。まるで、その穏やかな光景ははるかに夢見る極楽浄土のなかにあるかのようで、ここにもよりいっそう観音妙智の光を感じるのです。