新横浜駅西側の岸根交差点から小机の方角に向かっていくと、左手には秀麗な本堂がたたずむ瑞雲山 三会寺(ずいうんさん さんねじ)があります。
このお寺は御本尊様には弥勒菩薩をいただいた高野山真言宗の寺院で、創建年代こそ分かっていないものの、鎌倉幕府を創設した源頼朝が家臣の佐々木高綱に命じて建立させた、というお話が伝わっています。
この三会寺については、過去に印融法印の墓について取材し、記事にまとめたことがあります。
さて、こんもりとした屋根が特徴的な本堂へお参りした後は、本堂の脇にある観音堂に目を向けました。
この観音堂も比較的新しく、平成の時代になってから落慶したものだそうです。
この観音堂がある事は把握していましたし、前回の取材でいろいろお話を頂いた際にも特にこの観音堂に触れることはありませんでしたが、この観音堂の中には見るからに立派で迫力のある十一面観音の座像が鎮座されています。
みうけんが個人的に信心している、南区の弘明寺観音さまも十一面観音です。
この観音さまは、地元では鼻取り観音さまと呼ばれて親しまれてきたものです。
それには、こんな伝説が残されています。
むかし、このあたりがまだ鳥山村といった頃に、働き者だがたいそう貧しい爺さまと婆さまが住んでいたそうです。
この年も田んぼに水をいれて慣らし、稲を植える準備をする「しろかき」の季節がやってきたので、爺さまは馬を借りてきて田んぼに入れ、農具を引かせようとしましたが馬がどうしても嫌がってしまい、なかなか田んぼに入ってくれません。
爺さまは「どうどう、どうどう」と声をかけて促して鼻にかけた綱を引きますが、馬はすっかり座り込んでしまいました。
爺さまがすっかり困っていると、どこからともなくお寺の小僧さまがやってきました。
このあたりのお寺では見かけない顔でしたが、私が手伝いましょう、と言って綱をとると、それまで動かなかった馬がうそのように立ち上がって言う事を聞くようになったのです。
それから、しろかきの進むのが早いこと早いこと。
先にしろかきを始めていたほかの田んぼよりも早く終わってしまったというから驚きです。
爺さまと婆さまは、お礼にぜひ我が家へ寄ってくだされ、とお願いしましたが、いつの間にか小僧さまはいなくなり、小僧さまが住むお寺の名前すら分からずじまいでした。
次の日の朝、村じゅうがこの話でもちきりになっている時に、三会寺の和尚様が毎日のおつとめで観音さまのところにお経をあげに来ました。
すると、観音様の足が田んぼの泥だらけになっており、観音堂に残された足跡をたどっていくと、その爺さまと婆さまの田んぼのところまで続いていたのです。
その話を聞いた村人たちは、三会寺の観音さまは暴れ馬を鎮めて鼻取りをした、鼻取り観音さまと呼ぶようになり、その名前が今にも続いているのだという事です。
これと似たような話は、小田原市にも残されています。
小田原市の井細田というところには、鼻取り地蔵さまの伝説が残されています。
昔は、トラクターや耕運機などなかったわけですから、馬や牛に農具を引かせて田畑を耕したり、荷物を運んだりするのが普通でした。
この時に牛馬の鼻に紐をかけて引くことを「はなとり」といいますが、昔はこのような逸話があちこちで残されたのかもしれません。
この三会寺の観音さまには、この鼻取りの逸話を今に伝えるかのように
むかしたの はなとりやまの かんぜおん
いまもりしょうは たへずありけり
という御詠歌が残されています。
今では田畑を耕すとき、日本では馬や牛に頼ることはほとんどありませんが、お隣の韓国や世界の国々では今でも現役であることは、上記に紹介した小田原の鼻取り地蔵さまの記事で紹介した通りです。
この鼻取り観音さまは、もともとは奈良時代の高僧であった行基の作と伝えられ、最初は奈良の大安寺に安置されていたものが貞観8年(866年)に今の地に移ってきた、とされています。
平成に入って観音堂も新しくなり、観音さまも松本明慶仏師によって新たに作られ、その高さ4.8メートルを誇る堂々とした、またふっくらと豊かな体をされた観音さまは、いまもこの地に住み続ける人々とお寺の境内で列をなして歩く幼稚園児たちを穏やかに見守っておられるのです。