横浜と横須賀を結ぶ国道16号線は、現在では交通量が多い道です。
その東富岡交差点のところに、毎日ひっきりなしに走り去る車を眺める一体のお地蔵さまと、五輪塔があるのがずっと気になっていました。
もともと、お地蔵さまというのはどこにでもあるので、わざわざ原付を止めてじっくり見るという事はなかなかないものです。
そんなある日、このあたりを原付で流していたらたまたま携帯に電話がかかってきたので、ちょっと隅に原付を停めて応対していたらお地蔵さまに目が合ったのです。
普段、気にしながらも向き合う事がなかったお地蔵さま。
今回はなんとなく呼ばれたような気がします。
ヘルメットを脱いでお地蔵さまの前にひざまづくと、隅に掲げられた由来が目に入りました。
それによれば、
身代り地蔵尊由来
昭和五十五年十一月、東富国の交差点で、一人の男の子が輪禍に遇い、貴い生命を失いました。事故を目の当りにした近隣の人々が、 追福(追善とも言い死者の冥福を祈る仏事)と、交通安全を祈念して、その年の十二月に地蔵尊を建立しました。
爾来、每年十一月に尊前にて法要が修せられます。
平成三十年八月 合掌
とあります。
この子がいくつの時に亡くなったのかは言及されていませんが、昭和55年に幼くして亡くなったのであれば、みうけんと大して年は変わらないと思います。
昭和55年以降、みうけんはいろんな経験をし、皆から愛され守られて成長してきました。
この亡くなった子も、わざわざこれほどまでに立派なお地蔵さまを建ててもらえるくらいだから、よほど大切にされ、愛されていたのでしょう。
そんな我が子を無残な姿のまま旅立たせる事になってしまった。
その時の親の悲しみはいかばかりだったでしょう。
みうけんも今や二児の親ですから、その心境は痛いほど伝わってきます。
また、このお地蔵さまの裏手には古びた五輪塔が整然と並んで残されています。
大体、神奈川県の五輪塔は鎌倉時代から江戸時代に入るか入らないかにかけて、多く作られたと思います。
だいたいはある程度の地位があった人でしょうか。
お墓として、このような五輪塔を建てられる財力があった人のようです。
この五輪塔に関して、なんの資料も残っていないし、戒名などが刻まれているわけでもないので、その背景は全くわかりません。
思い返してみれば、このようにきちんと五輪塔の形をとどめて、丁寧にお祀りされているのは稀少だと思います。
神奈川県内には、バラバラになったまま土に埋もれようとしている五輪塔だって、いくらでもあるのです。
その人の名前すら伝わる事なく眠る、いにしへの故人たち。
この五輪塔の下には、いったいどのような人たちが眠っているのでしょうか。
今となっては知る由もありません。
人生というものは人それぞれです。
幸せだった人、不幸だった人、金持ちから貧しい人、さらに長生きした人から幼いまま亡くなった人、ほんとうにそれぞれです。
このお地蔵さまも、いつしか言い伝えが途絶えて由来不明のお地蔵さまとなってしまうかもしれません。
そのような事を考える度に、時の流れの無情さをしみじみと感じ、どうか冥土の旅に幸あれとお祈りして、この幼き身代わり地蔵さまに手を合わせたのでした。