厚木市の中心部から愛川、宮ケ瀬を抜け、道志川にそって進み、やがて津久井へと至る国道412号線という道があります。
厚木から愛川へと抜けていく、とても重要な道であるとともに、みうけんの原付ツーリングではよく利用している道でもあります。
その412号線ぞい、長竹カントリークラブをぐるりと周回するようなあたりで、一歩里に入ったところにあるのが臨済宗寺院である長生山 来迎寺です。
このお寺はいかにも農村とともに歩んできた、ふるさとのお寺といった風情です。
簡素なトタン葺きの本堂は、その周囲も綺麗に掃き清められて清潔に保たれており、いかにも質実剛健にいきる禅宗の道場と呼ぶにふさわしい、厳かな雰囲気を感じさせます。
江戸末期に編纂された新編相模国風土記稿では「津久井縣 毛利庄 長竹村」の欄に、
来迎寺
と紹介されています。
貞治6年(1367年)に創建、ということはまだ室町幕府が始まったばかりのころで、かなり古い歴史を持つお寺であることが分かります。
この来迎寺の墓地には、数えきれないほどの小さな墓石が並んでいるところがあります。
これらはみな江戸時代のものばかりで、その整然と居並ぶさまはまるで閻魔大王の裁きを待つ亡者の行列を見ているかのような錯覚さえ覚えます。
しかし、その多くは「童子」「童女」といった戒名をもつものがほとんどである事に驚かされます。
今からそう遠くない江戸時代では、子供が無事に大人になるという事じたいが大変だったといいます。
今では簡単に治ってしまうような病気でも、医学の発達していなかった頃は命取りになりました。
神仏への祈りもむなしく、打つすべもなく、我が子に先立たれた親の無念と悲しみはいかばかりだったでしょうか。
さて、ここには周囲に六地蔵を浮彫させた、石幢(せきどう)の輪迴塔が残されています。
石幢とはもともと中国から渡来したもので、六角または八角の石柱に、仏龕(ぶつがん)・笠・宝珠などをあしらったものです。
ここの石幢では、灯籠の火袋にあたるところが六面となり、そこには六地蔵が浮き彫りされているのが分かります。
これは、死後に六道(天上道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)に輪廻転生する亡者を救う六地蔵をかたどったものでしょう。
いくら仏法に触れても愚かさを捨てきれないのが人間というもので、生きながらにして、そして死んだ後でさえ六道に迷うといいます。
死者を供養する者は、この六地蔵に願いをかける事によって、それすなわち死者の供養となるのだという事なのです。
先ほども書いたように、江戸時代では子供を大人になるまでに育てるという事は決して楽な事ではありませんでした。
ことに、この村では貧困な農民が子供を育てることも出来ずに、次から次へと間引きして闇に葬ったという悲しい出来事もあったと言われており、この輪廻塔はこうした悲しい子供を供養するために造立された、とも言われています。
また、この来迎寺の周囲にはたくさんの地蔵菩薩の石像が残されており、運悪くして死出の道を歩んだ果てに、六道のふちに迷う家族の冥福を心配した家族が、その冥福を地蔵の慈悲にすがった在りし日の姿が目に浮かぶかのようです。
特に、この来迎寺の門前にある地蔵尊の坐像は、まるで息絶えて横たわる我が子を抱き抱える親の姿を生き写しにしているかのようです。
その悲しい境遇に想いを馳せるとき、熱い涙が頬を伝う事を止める事すらできません。
いま、時代は平成から令和へと移り変わって医療も進み、衣食住はおろか飽食の時代とすら呼ばれる豊かな日本のなかでも、子育地蔵や子授地蔵が沢山建ちならぶここ長生村の悲しい昔ばなしが思い出されてきます。
秋の夕暮れのなか、数えきれない墓石の中に立つ輪廻塔に静かに手を合わせるとき、北原白秋の遺した
赤い夕日の照る坂で 我と泣くよなラッパぶし
見れば輪廻が泣きじゃくる
たよるすべなきみなしごの けふ日の寒さ 身のつらさ
思ふ人には見すてられ 商人(あきうど)の手に弾かれて
思えば輪廻が泣きじゃくる
という詩を、にわかに思い起こしたのです。
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