三浦市の三崎口駅前の「三崎通り」をずっと南下して行くと、三崎の市街地に当たりますが、現在では湘南信用金庫の三崎支店があるあたりは明治25年(1892年)頃までは街道の宿場であったと言わています。
幕末の頃には三崎支店のあたりには「陣屋」があり、酒屋や酒屋、うなぎ屋が軒を連ね、旅人や飛脚、牛馬を連れた農夫から、陣屋の侍までも相手にして商売をしていたのだそうで、特に「原そば」と呼ばれた藤沢屋は旅人宿もしていたそうです。
ただし、今の三崎通りは戦時中に三浦半島の要塞化を進める軍部の主導によって整備された道で、本来の街道は諸磯公園の脇を通る、今では路地としか言えないような道でした。
とても細くて軽自動車ですら通るのに難儀するような道ですが、こういうところで力を発揮してくれるのが原付です。
原付をゆっくりと進め、かつて「なもた坂」に通じたという古道を抜けていきます。
両側には現代風の家屋が並んでいますが、しばらく進んでいくと、右手にこんもりとした諸磯公園の茂みが見えてきました。
この諸磯公園の茂みのところには、いくつかの石塔と簡素な地蔵堂が残されています。
もともと道祖神や庚申塔をふくむ石仏というものは街道の辻などに置かれましたが、ここもかつては街道であったことの証左なのでしょう。
石塔群は、手前に4基、後ろに2基の合計6基が残されています。
手前の4基のうち左端は、「南無阿弥陀仏」と陰刻された「念仏塔」です。
両端には「天明七未年」「五月十三日」と刻され、正面に「南無阿弥陀仏」の名号が陰刻されています。
下の方には「稲取村」「〇〇村」の村名が陰刻されています。
「〇〇村」の部分はよくわかりませんが、そのままでは「吉戸村」に見えます。
吉戸村というのはちょっと把握できませんでしたが、稲取村があった伊豆国賀茂郡に「吉田村」「富戸村」という村がありましたから、何か関連があるのかもしれません。(もしかしたら、2つ合わせて吉戸村とか・・・あくまで推測です)
また、後ろ側の大きな石塔には「溺上死人之墓」と陰刻されて、ここにも「豆州賀茂郡稲鳥村」「忠右衛門船水主四人乗」との文字が陰刻されているのです。
江戸期、たくさんの「廻船」が海を渡り、地方からの色々な特産品を江戸で運びましたが、その中継地が伊豆半島と三浦半島でした。
当然、途中でしけに遭い戻らなくなった船もあったそうですから、そのような廻船や、漁業に携わりながら事故にあってしまった人々の霊を慰めたものなのでしょう。
また、向かって右端の天明7年(1787年)の石塔には、「釋」の字があります。「釋」とはオシャカさまのことで、その下には「讃海、秀海、教海、須海」の文字が読みとれ、さらに寄進者と思われる名前が並んでいます。
この「讃海、秀海、教海、須海」は修行僧や出家者の名前だったのでしょうか。
「海」の字を充てるところが三浦らしいと思いますが、これらの人々がここにまとめて葬られたのは、どのような事情があったのか、想像がふくらみます。
後ろ側の卵型の「無縫塔」は文政元年(1818年)7月のもので、「原譽喜道圓法子位」の文字が見えます。
「無縫塔」は江戸期に僧侶の墓によく使われたお墓ですが、浄土宗の「啓蒙随録」では
法子とは古来存生中より発心出家した者の称である。幼少のころから出家し、未だ檀林修行にいたらない者の称である
としています。
つまり、寺や僧侶の道場での修行に至らない、まだ出家したばかりの出家信者のことでしょうか。
「原譽喜道圓法子位」のうち、原とは地名からとったものでしょう。
この近辺を今でも原といいます。
その後に使われた、「誉れ」の字、「喜び」の字が、まるでこの墓に葬られた人の生前の笑顔を今に伝えているかのような妄想を抱かせてくれます。
さて、この石塔だけでも色んな思いを巡らせる事ができますが、その脇には小さな地蔵堂があり、いつも花と香華が途切れる事がありません。
こちらは、いつのものかは全く分かりませんが、光背にはハッキリと「三界万忌為有縁無縁」の文字が陰刻されているのが分かります。
すなわち、「三界=過去・現在・未来の3つの世界は毎日が誰かの命日である。その各々に縁があろうと無かろうと、すべての人々を救済しよう」という慈悲の決意の表れを示します。
ちなみに、お寺でよく見かける「三界万霊塔」は、「三界=過去・現在・未来の3つの世界、すべての霊魂を慰め、供養し、祀る塔」です。
これに手を合わせる事は、過去から未来にまで存在する、まさに莫大な人数の人たちの霊すべてに手を合わせるという事であり、たいへんな功徳である、とみうけんは考えますし、そのように教えてくださったお坊さんもいらっしゃいましたから、お寺に行った時はなるべく一箇所に固められた無縁仏や三界万霊塔にも手を合わせるようにしています。
このお地蔵さまは、近隣の中でも大切にされているようで、造花ではあるものの、この日も綺麗なお花がお供えされていました。
このお地蔵様の足元には、3基の墓石が埋め込まれているのが確認できます。
左から厭譽〇浄法子(〇はにんべんにエと欠)の戒名のみが陰刻されたもの。
真ん中は「皈元」の下に「貞空禅定尼 寛保正月」と「玄了禅定門 同年二月」と陰刻されています。
「皈」は「帰」の異体字ですが、「帰元」とは迷界を脱して原点に帰る、すなわち死んで生まれ変わるといった解釈にもとれる仏教用語です。
右端には「南無阿弥陀仏」と大書きされ、「天保三年六月」(1832年)の文字が陰刻されており、戒名などは見えないもの。
どれも性格が不明な無縁仏の墓石ですが、その戒名や面立ちから、いろいろと推測できるものでもあります。
これらはお地蔵様に手を合わせると、自動的に墓石にも手を合わせる事にもなる画期的なシステムで祀られています。
また、右端には小さな石仏が置かれています。
坐像ですが、どのような仏様であるのかはよく分かりませんでした。
これらは、細い路地の片隅にひっそりと並び、この路地が昔から使われていたことを物語っているかのようです。
この先には、また細い細い路地が続いています。
これが、まぎれもなく江戸時代の街道だったそうで、かつてはこの道をたくさんのさむらいや、里人たち、そして牛や馬が歩いて通った事でしょう。
いま、この路地を通る人はめっきり少なくなって、交通の大半は三崎通りへと移りました。
それでも、相も変わらずモノを言わぬ石仏たちはこの道ぞいにお座りになって、この道沿いに日々を暮らす里人たちを見守り続けています。
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