相模原市南区、新磯小学校入り口の交差点に立つ大きな青面金剛の石碑を見ながら、交差点の道を東に進むと、突き当りまでの坂は「ねこ坂」と呼ばれています。
なんでも、この坂はむかし猫が化けて踊っていたとかで、嫁入りや兵隊の送り迎えの行列は避けて通ったのだそうです。
この坂の脇の、うっそうと茂る森の中に玉石積みの石垣に囲まれ、苔むした鳥居をもつ有鹿神社奥宮があります。
その古びた鳥居には真新しい扁額が不釣り合いなような気がしますが、その奥にある小さな石祠の簡素な外観とは裏腹に、地元では篤い信仰を受けているそうです。
現在の相模原公園を含んだ森全体は有鹿の杜です。
この祠の脇には、今でもきれいな水が湧き出ている泉があり、周囲の田畑を潤してくれています。
このことから、この神社はこの水源を祀る水神としての性格もあったようです。
ここから6キロ南へ行った海老名市上郷に有鹿神社の中宮があります。
その縁起には「社を距(へだて)ること千百歩に霊洞あり」と記されていることから、この相模原市の奥宮こそが有鹿神社の本体である有鹿谷の霊泉なのであることが分かります。
「延喜式神名帳」を開くと、有鹿神社は高座郡小五座の一として紹介され、古くは藤原広政という人が夢のお告げを得て祠を修復し、天平勝宝8年(756年)9月に開墾した田を500町も神様に供えたと記載されていますから、かなり古い神社であることが分かります。
さらに、天正3年(1575年)4月、海老名の総持院の住職「慶雄」が夢のお告げをうけ、祠の東北にあった池の中から石を見出して御神体としたそうで、江戸時代に編纂された一大地域史料の「新編相模風土記稿」に「淡黒色高さ五寸・周回九寸あり」という石が記載されています。
この慶雄住職は夢のお告げで、瑞鳥(めでたい事の吉兆とされる鶴や鳳凰などの鳥)が飛ぶ後を追って行ったところ、そのとまった場所に泉があり、それが清泉わき出る有鹿洞であったというのです。
それ以来、毎年4月8日の祭礼には神官が先頭に立って、大勢の氏子が神輿をかついで、海老名市上郷から6キロ離れた距離を歩き、この相模原市勝坂の有鹿谷までご神体の石を運ぶお祭りがおこなわれています。
一時期は廃れたものの、現在は復活しているそうで、これは「有鹿さまの水もらい」と呼ばれているそうです。
農耕が生活の中心であったかつての日本では、作物を育てるのに欠かせない水源をいかにして確保するか、という事で村同士のいさかいなどが絶えなかったといいます。
それは、海老名耕地も例にもれず、同じく鳩川の水を用水とする磯部部落や、その下流に位置する新戸部落や座間部落とのいさかいが多かったという事ですが、この有鹿神社をいただいた両部落は交流を続けたという事です。
また、この勝坂にはこのような伝説が残されています。
むかし、4月8日の祭礼の時に、勝坂の酒屋の広間で祝宴が開かれていました。
そこには大きな六枚屏風がありましたが、どこからともなくやって来た大蛇が屏風の上にとぐろを巻いてしまい、さも祝宴に参加しているかのような顔ぶりで横たわっていました。
一同は驚いて追い払おうとしたものの、その大蛇はびくともしません。
ほとほと皆が困り果てていると、タイミングよく蓑毛の神官が通りかかったのです。
さっそく神官を呼びとめて有難い祝詞を詠んでもらったところ、ようやく大蛇が帰っていったという話もあります。
昔は大きな蛇などは珍しくもなく、むしろネズミを食べるからと歓迎されたものですが、昔から水神というものは龍や大蛇のたぐいとして信仰されてきました。
このような逸話も、有鹿谷の用水との関わりがあったものかもしれません。
いま、神奈川県における産業の中心は農業から工業や商業へと変わりつつあり、この「有賀さまの水もらい」の神事もただのお祭りへと変わりつつありますが、今では水道をひねればいくらでも出てくる水というものが、昔の人にとってはどれだけ大切なものであったかを教えてくれるエピソードと言えそうです。
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