東海道線真鶴駅から真西がわ、湯河原の福浦郵便局前のバス通りを少し登ったところに、石垣と古木の陰にひっそりとたたずむ無人の堂宇があります。
地元では、庵寺(あんでら)と呼ばれています。
この寺について、わざわざ来ようとして来たわけではありませんでした。
このあたりを原付で流していたら、たまたま気になって急遽Uターンして立ち寄った、というのが正しいところです。
静かな境内に入ってみれば、トタン葺きの簡素なお堂はその門が固く閉ざされ、中の様子をうかがい知る事はできません。
しかし境内は綺麗に掃き清められ、とても清潔に保たれています。
本堂の前の、丸に一の字を書いたようなコンクリート舗装がいかにも印象的でした。
この寺について、何の予備知識も持たず、その場で「新編相模国風土記稿」をはじめとする色々な史料を紐解いて探してみたり、インターネットでも検索してみたものの、その正確な宗派すら今の時点では知ることが出来ていません。
本堂には、「相模国八十八か所 十七番」として
おもかげを うつしてみれば いどのみづ
むすべばむねの あかやおちなん という御詠歌が掲げられています。
これは実は、四国八十八か所の第17番札所「瑠璃山 井戸寺」のものです。
藤沢の方には相模国八十八か所というものがありましたが、ここ湯河原にも同じような八十八か所霊場巡りがあったのでしょうか。
皆さんご存じの通り、八十八か所巡りは真言宗の宗祖である弘法大師の霊場巡りです。
という事は、この庵寺は真言宗の寺院なのかもしれません。
もはや、この寺の歴史の真実を知っているのはこの六地蔵くらいなものでしょうか。
あるいは地元の方に聞けば、何か教えて下さるかもしれません。
しかし、こういう隠れた歴史というものは、得てして誰も歩いていないようなところにあるものです。
通り過ぎていくバスにすら、誰もお客さんは乗っていないようでした。
一通り境内を見て歩くと、その隅に何とも言えない不思議で魅力的な観音様を見つけました。
頭に阿弥陀如来を頂いているところから、おそらく聖観音菩薩の坐像だと思われます。
手には蓮華座をお持ちですが、かつてはこの蓮華座の上に何かが載せられていたのでしょう。
この観音菩薩は、何とも言えない力を秘めているようでした。
その円柱形の台座には、「明治五申年二月□日」「本貞明壽信女」と言う戒名が掘られています。
信女というのは一般的な女性に対する戒名として多く使われた号です。
この事からも、この観音菩薩像が明治初頭に亡くなった女性の墓標であることは間違いないようです。
薄く閉じたまぶた、キュッと閉じた薄い唇。
なんとなく、何かにじっと耐え忍んでいるようなお顔にも見えてくるような気がします。
いったい、この観音菩薩はこの下に眠る本貞明壽信女さんを、どのようなお気持ちでお見守りになっておられるのでしょうか。その固く閉ざされた口からは、答えを聞き出すことはできません。
簡単に延命十句観音経をお唱えして礼拝しました。
この観音菩薩像は、他のお地蔵様と共に仲良く赤いよだれかけを頂いて、静かに座っておられます。
最初からここにあるのか、それともどこからか移動されて来たのかは知る由もありません。
このように立派な観音菩薩さまを頂いて眠る本貞明壽信女さんは、いったいどのような女性だったのでしょうか。
なんとなく興味がわいてしまいますが、今となっては調べる術もありません。
この中で、とりわけ珍しいのが右端の「食頑翁之塔」です。
「食頑翁」って、どんな翁(おきな=おじいさん)なんでしょう。
少なくともみうけんは初めてみたお名前です。
「食」に「頑」固な「翁」??
これについても、なんの由来も歴史も、何も分からずじまいです。
本当に、このお寺については分からないことだらけです。
誰か教えて下さる方がいらっしゃるなら、再度原付を飛ばして湯河原まで飛んでいきたい気分です。
少し写真がぶれてしまいましたが、横道(よこどう)三十三か所の供養塔もありました。宝暦五年のものです。
むかし、西国・坂東・秩父などの大規模で有名な観音霊場に比べて、日本全国に小さな規模で作られた、手軽に巡ることが出来る霊場の事を指して「横道霊場」と呼びました。
横道というのは、書いて文字の通り「名もない小さな脇道」のことです。
これもきっと、江戸期に多く作られた巡礼の旅の成就を記念した「巡礼供養塔」のひとつでしょう。
江戸時代、横道巡礼は主に女性たちが巡る旅という位置づけでした。
今とは違って、生きること自体が大変なことだった時代。このような小さな霊場を旅することは生きることに必死でありながら、苦労して捻出した時間の中で行われていた、まさに一生に一度の楽しみだったようです。
当時、数人程度の講を組んだ女性たちが白装束に身を固めて、お寺に整列しては手を合わせ、朗々と観音様の御詠歌を上げていたといいます。
その声の美しいことといったら。
想像するだけで、こちらまで気持ちが清らかになるようです。
もしかすると、観音様に抱かれながらここに眠る本貞明壽信女さんも、当時の女性の例に漏れずに横道巡礼を楽しんだ一人かも知れません。
この本貞明壽信女さんがどのような生涯を送り、どのような亡くなり方をしてここに眠っているかその経緯は全く分かりませんが、きっと観音さまに対する信心が人一倍篤かったのでしょう。
いま、この訪れる人がほとんどいない庵寺の本堂の中で、風に吹かれてささやく木々の葉の音がより一層のなつかしさを呼び、かつてここに生きつつ、一心に観音菩薩へ祈りをささげた女性たちの姿が鮮やかによみがえってくるようです。