横浜から横須賀へと南下していく国道16号線沿いは、現在となってはたいへんに交通量も多く、軍都横須賀と港湾都市横浜を結ぶ神奈川県の大動脈ともいえる存在である。
その国道16号にかかる船越トンネルの手前には、瀟洒な寺院が建っているのがわかるが、これは金鳳山・景徳寺という臨済宗円覚寺派の寺である。
一見して、どこにでもありそうな普通のお寺なのであるが、その門前には「三浦観音霊場第21番札所」の字があり、ここが観音霊場であることをひそかに教えてくれている。
この寺の本尊は十一面観音菩薩で、もともとは横須賀共済病院分院の近くにあった宝珠庵という寺の本尊であったが、寺が焼失したときにこの寺に移ってきたのだという。
いつの時代かはよく分かっていないものの、口伝によれば、この十一面観音の仏像は朱漆の船にお乗りになったまま、船越の入り江のほとりに流れ着いていたのを村人が見つけ、丁重にお祀りしたのが宝珠庵とされている。
このときに、観音様が船でお越しになったという事で、この地に船越という名をつけたと「田浦町誌」に掲載されているのが実に興味深い。
山門に入って左手には立派な観音堂があり、これは元々は沼間へと向かう鎌倉道にあったものを、昭和5年ごろにこの地に移したのだという。こちらは本尊は馬頭観世音で、この観音堂の前を馬に乗ったまま通ろうとすると必ず落馬して大怪我をするとの言い伝えがあり、その霊験はあらたかとして庶民はもとより遍く階級より、たいへん篤い信仰を受けたのだという。
この景徳寺の脇には現代的な船越隧道が通っているが、この隧道はもともとは手掘りのトンネルであった。
明治20年代にこのあたりの船越・田浦の人たちが掘り始め、大正12年に現在の船越隧道(下り)が開通するまでの間は、この地域になくてはならない大切な交通の要所だったということであるが、現在では使われておらず、崖の中腹に大きな口を開けているのが、田浦がわからかろうじて確認できるのみである。
もう、誰も歩くことがないこの隧道の入り口の脇には、大正十二年大震災、すなわち関東大震災の殃死者供養塔が物言わずにして立ち、この街道を通り過ぎていく車たちを静かに見守っているのである。
かつて、ここは交通の要所であり、たくさんの人々から荷物を満載した荷駄車、農家で飼われて農耕の任についていた牛馬までが歩いた道だった面影は、今はみじんも残されていない。
いま、この景徳寺で観音様の真言を唱えて手を合わせ、ひとり静かに「大正十二年大震災 殃死者供養塔」に向き合うとき、背後にはけたたましく鳴り響くトラックのエンジン音を聞いて、ここにもこの街と小さな寺が歩んできた歴史の哀話をひしひしと感じるのである。