横浜市の中心部から南に下ったところ、横浜市営地下鉄の弘明寺駅を降りると、すぐに賑やかな弘明寺商店街の入り口にさしかかる。
その商店街を抜けた先には秀麗な山門が聳え、その奥の石段を上ったところこそが、坂東三十三観音霊場の第十四番として名高く、今なお多くの里人から無限の信仰をあつめる瑞応山弘明寺(ずいおうさん・ぐみょうじ)であり、
観音の妙智の力は よく世間の苦を救う
神通力を具足し 広く智の方便を修し
十方のもろもろの国土に 身をあらわせざることなし
と観音経で称えられた観世音菩薩の功徳を、信仰する人々にあまねく分け与えているのである。
みうけんは時折、ここの観音護摩行に参加している。
この日も、雨がしのついていた曇りの寒空の中、本堂の中には入り切れないほどの老若男女、子供連れの信者が多く詰めかけては皆で一斉に一心に観音経を唱え、それぞれ思い思いに観音様への祈りをささげる姿は、どこか壮観でもあった。
それぞれが思い思いの願い事を護摩木に託し、僧侶とともに十一面観音菩薩の御前で観音経や真言を唱えると、皆で一斉に炎の中に護摩木を投入していく。
燃え盛る護摩木は煙となり灰となって、天高く舞い上がり、その願いは天に届くのである。
護摩修行|弘明寺 横浜最古の寺(高野山真言宗) Goma fire ritual (Homa) at gumyoji , yokohama JAPAN
この弘明寺は、横浜市の中でも一番古い寺である、と言われることがある。
かつて奈良時代に高僧行基が諸国を廻ってこの地に来た事があった。行基がふと空を見上げた時、突如として真白の蓮の花びらがどこからか現れて舞い始め、ここの山の上に降ってきたのである。
これは不思議な事、と行基がさっそく山を登っていくと、そこには大きな白狐に乗った仙人がいた。仙人が言う事には、
「この寺は養老(717年~724年)のころに、インドの三蔵法師が日本を巡って修行された際に建てられたものである。そのとき、三蔵法師は不思議な力を持つ七つの石を持ってこられ、経を書き込んでは結界として埋めておかれた。いつもは地中に隠れているが、自ら地上にあらわれて七つとも人の目に触れたときは、良いことか悪いことのどちらかが起きるであろう」
とお告げされ、その声が切れるが早いか煙のように消えてしまったという話がある。
時は流れ、寛永元年(1624年)と明和3年(1766年)のころ、前触れもなく突然石が現れた。
里人たちは良いことが起きるか、悪いことが起きるかと大いに案じたものの、里人たちの作物はよく育ち、商いは繁盛して、寺へも多くの寄進がなされたという。
その時から、この七ツ石は福石とも呼ばれるようになったとされる。
かつて、この福石は仁王門の右に2つ、左に1つ、庫裡の周りに3つ、あとの1つは隠れていたと言われている。
しかし、現在では7つが仲良くそろって境内の一番明るいところへうやうやしく飾られて、多くの信者からは祈願を託した小石を乗せられて大いなる信仰を集めているのである。
いま、この弘明寺の境内で本堂前の香炉に香華を手向け、一心に手を合わせて観音菩薩に祈りをささげるとき、この不思議な霊石の出現に一喜一憂した村人たちの姿が思い起こされるようで、ここにも不思議な伝説と仏縁とのかかわりを感じずにはおられないのである。