春うららかな陽光に照らされながら、延々と続く風光明媚な三浦海岸の南端、三浦農協の南下浦支店の角を山側に入っていくと、左側の角に庚申塔が残る小路に分岐する。
その小路を入っていくと、右手には田保谷戸といわれる農地が山に抱かれるようにして広がり、道の左手の入り口には小さな庚申塔が残り、その奥にはさらに狭く目立たない農道が伸びているのが確認できる。
この小さな庚申塔の脇は細い農道となっているが、民家の犬に吠えられながら、軽トラックの残した深いわだちに足をとられながら、細くて滑りやすい農道をどんどん登っていく。
すると、坂を登って行った左手には「水田」という表札のかかった、なかなかパンチの効いた廃屋が見えてくる。
ここまでくれば、目的地はもう一息である。
やがて農道は畑へとつながり、右手につながる狭い道を入っていくと、高台から眼下に南下浦小学校を眺めるようにして建つ「菊名左衛門重氏碑」に行き着くことができるのである。
さらに、この「菊名左衛門重氏碑」の裏側には数個の五輪塔の残骸が残されており、これこそが三浦一族の最後の頭領として名高い、三浦義同(よしあつ)公の家臣であった菊名左衛門重氏の墓と言い伝えられている墓域として、現在でも近隣の有志によって大切に守られている。
これといった陰刻もなく、決して大きくもなく、ひたすらに武骨、ひたすらに質実剛健とも言えようこの五輪塔群は、古都鎌倉あたりでよく見かける五輪塔とまったく同じ様式のものであり、このような造像は神奈川県内では多く認められる。
そのわきには大正7年7月に建立されたと陰刻のある、「菊名左衛門重氏之墓」も残されているのである。
菊名左衛門重氏は、過去の記事「菊名の水間さまと 武将の乳母の伝説(三浦市)」にも登場しているので、個人的には久しぶりに聞く名前である。
大正7年に発行された「三浦郡誌」によると、「菊名ノ海岸ニアリ、小サキ五輪塔 五基並ベリ。里俗菊名左衛門ノ墓ト称ス」とのみ紹介されており、それ以上の詳しい説明は残されていないが、大正14年発行の北村包直著「三浦大介及三浦党」という資料があり、いまだにAmazonでも入手可能である。
その「三浦大介及三浦党」によれば、漢文なのでいささか読みづらいのであるが、それによれば菊名左衛門重氏という男は三浦義同(よしあつ)公の家臣であったとされ、さらには現在の菊名一帯を領有し、忠勇の誉れはますます高く、永正合戦のおり、敵軍にとらわれた義同公の嫡子であった「虎王」という幼子を奪い返そうと奮戦し、単身敵陣に切り込んで戦死した、とある。
この菊名左衛門重氏は領民からもよく慕われていたので、この死を嘆き悲しんだ領民たちは重氏を手厚くねんごろに葬ったが、年月がたち墓の存在そのものが忘れられていくと、その墓所は荒れ果てるに任せる状態であった。
時は流れて大正11年、奮起結集した有志たちの手によって墓は再び整備され、ここに記念碑を建立したのだ、とある。
虎王が助けられたのか否か本当のところはわからない。
そればかりか、他の吾妻鏡や三浦一族研究などの資料を開いても、ほかの資料には虎王の名前すら見つける事はできなかった。
みうけんが調べた限りでは、虎王というのが実在の人物かどうかすら分からないというのが正直なところであるが、それどころか、これは村井弦斉という人物によって明治期に創作された「桜の御所」という創作小説の話に出てきた話であるらしい。
よって、これらの話は後世の完全な作り話であるのかもしれないが、三浦市が建てた案内看板にはまるで史実であるかのような書かれ方もしてあり、歴史と小説が混然一体となってしまった、実に興味深い現象であろう。
この伝説の真偽のほどはまったくもって不明ながらも、菊名の里人たちの間では民話として長く語りつがれ、それによって菊名左衛門重氏は里人からは今なお敬慕の情をもって愛されているのであろうことが、綺麗に掃除された墓域から読み取れるのである。
歴史は歴史として検証していくことも大切であるが、このように後世になって脚色され、話に尾ひれがつき、それがむしろ真実のように里人から愛されているという話はたくさんある。
中には、このような話はウソであるとして一刀両断する向きもあるだろう。
その反面で、三浦氏の最後をかけて奮戦した三浦荒次郎義意が身長7尺5寸(2メートル27センチ)という現代でも驚異的な大男であり、厚さが2分(6センチ)の鉄板を全身にまとった戦車のような体で、1丈2寸(3メートル64センチ)の長さの金砕棒を振り回して敵を薙ぎ払ったという話もあるから、そのような明らかな創作があってもそれはそれで楽しいではないか、と個人的には思う。
いま、訪れる人も、手を合わせる人もほとんどないであろう、この墓域からは遠く東京湾の海原が望め、その上空を旋回するトンビの姿は往古と変わらず、そのトンビの鳴き声は果てしなくこだまし、ここに寂しく眠る豪勇の武将を慰めているかのようである。
いま、小高い丘の上に残る菊名左衛門重氏の墓の前に立ち、かつて彼が領有したと言われている田保谷戸を眺め、おそらく彼が愛したであろう海原を眺め、遠くに菊名左衛門重氏の乳母の伝説の残る水間様をのぞむとき、ここに生き、ここに死んでいった一人の豪勇の誉れ高き武将の姿が目に浮かぶようで、今なおその勇猛な息吹が身近に感じられるようである。