横須賀から三崎口駅を通じて、三浦三崎まで伸びる横須賀三崎線という道があります。
このあたりの主要な交通路ですが、なかなかに交通量も多い道です。
その「油つぼ入り口」交差点のあたりを西に入っていく細い道の奥に、浄土真宗本願寺派寺院である白蓮山 観音堂 心光寺の小さな門が見えてきます。
このお寺も、かつては浄土真宗ではなかったのでしょう。
寺伝では江戸時代の宝永年間(1704年~1710年)には、すでに一向宗(現在の浄土真宗)であった一向山長善寺の末寺となりましたが、檀家も減ったので寺号を廃して、長善寺の境外御堂となったそうです。
ただ、御本尊の聖観世音菩薩はかなり古くから諸磯村の守り観音として崇敬されていたそうで、その信仰は途絶えることなく今でも続き、この小さなお寺は地元の方々の手によって大切に守られています。
この像高1m程の聖観音立像は全身を黒漆で飾り、左手に蓮華花を持ち、右手はまっすぐに下げているもので、宝冠を頂き、胸にはたくさんの瓔珞(ようらく=飾り)を付けた豪華なもので、その威容にふさわしく三浦三十三観音霊場の結願寺となっています。
昭和52年の三浦市教育委員会の鑑定では、なんと平安時代の作であろうと結論づけられており、この辺りでも最も古いものではないでしょうか。
さて、この心光寺の」山門の左側にこの諸磯の各地にあった「庚申塔」などがまとめて祀られています。二列になっていて、前面に6基。後ろにも6基が祀られているのです。
このうち、とても珍しい庚申塔があります。
全体的に駒型の造形で、正面は剣や弓を持った「青面金剛像」です。
ここまでは一見して、どこにでもありそうな庚申塔ですが、その体には巨大な蛇を巻いています。
もしくは、龍のたぐいでしょうか。
その足には、大きな邪鬼を踏んだ姿になっています。
この台座には「講中 十三人組」と記されているのが読み取れます。
この庚申塔に彫られた年号は明治24年(1891年)で、日清戦争の起る少し前です。
もうすっかり文明開化も成り、廃仏毀釈運動も落ち着いて、人々の土着の信仰心が徐々に戻ってきたころです。
右手にはしっかりと宝剣を握り、左手にショケラを下げています。
ショケラというのは青面金剛が左手で頭髪をつかんで下げている半裸女人像の姿のものですが、その名の由来、その人間、もしくは人の形のものの真意は各説あり、みうけんにはどれが正しいのかは分かりません。
ただ、通常は髪を握られてそのままブル下がっているショケラの姿ですが、この庚申塔では振り回されてしまって横向きになった状態で表現されています。
このように躍動感がある庚申塔はなかなかありません。
また、その足元には鳥が描かれています。
庚申の年、すなわち干支で庚申(かのえさる)の次は辛酉(かのととり)です。
早く申(さる)年から酉(とり)年になって欲しい、という願いが込められているのだそうです。
なんとも憎々しい、出っ歯の邪鬼に目が行きますが、その下をよく見てみると庚申塔にはつきものの「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が描かれています。
ここにある他の庚申塔ももちろんそうですが、通常は3匹の猿が正面を向いて、それぞれ自分の目、口、耳を押さえているのが普通です。
しかし、この庚申塔に描かれた三猿は見ざるだけ横を向いています。
他の庚申塔にくらべて、腕の長さも長く、まるでお互いにお互いの目、耳、口を押さえあっているかのようにも見えてくるから不思議です。
もしくは、真ん中の聞かざるの腕を両脇の猿が押さえているようにも見えます。
その真意はなんでしょうか。
このように、この心光寺の前の庚申塔は、見れば見るほど面白いものです。
ここに取り上げた庚申塔の他にも、見るべきところ、楽しい魅力にあふれた庚申塔があります。
三浦半島は庚申塔がとても多い地域で、今までにも何度か取り上げたことがあります。
特にこの心光寺の前の庚申塔はそれぞれ特徴がありますし、あまり崩れておらず綺麗なものなので、庚申塔研究にはもってこいです。
また、ここに並んで、以前に紹介させていただいたとっても珍しい豚頭観音というのがあります。
だいたいは馬頭観音、ごくまれに牛頭観音というのはありますが、豚頭観音というのはここだけではないでしょうか。
この心光寺は、観光ガイドブックなどには決して載らないような、地元の方しか訪れないようなお寺ではありますが、三浦の人々の暮らしに大きく密接してきたお寺でもあるようです。
三浦半島の名所はいろいろありますし、ガイドブックに載っているだけでも魅力的なところが多すぎて一日ではとても廻りきれませんが、このように原付で旅をしていると路傍の石仏にまでいろいろな魅力を見出して、とてもきりがありません。
それほどまでに、三浦半島というのは魅力的な所であると思います。