神奈川県の中でも北西に位置するターミナル駅にJR線と京王線の橋本駅があります。
この西側、現在は橋本郵便局・ホームセンターコーナン・北警察署から橋本公園までに至る一帯は、国鉄の橋本自動車工場という工場があったところです。
現在、地域の中心となる西橋本ほほえみ公園に、その歴史を物語る痕跡が残されています。
今からそう遠くない戦前のころ、日本の自動車産業というものは世界的に見ても小規模で、まだ乗用車の生産は細々としていました。
自動車が壊れたら修理を施して大切に乗る、というのは昔も今も変わらない事ですが、今と違いディーラーも街の自動車工場もガソリンスタンドも少なかった時代、自動車を修理する工場の建設は新時代の近代国家建設のうえで避けては通れない道でした。
そこで、昭和17年頃、軍と官、そして民の要望を受ける形で東京鉄道局によって自動車工機部を設立し、関東近辺の自動車たち年間1000台の修繕を目指して、終戦間際の昭和20年5月に操業を開始したのです。
終戦後の昭和20年代後半には蒸気機関車の修繕をも手掛けるようになり、多くの車両をよみがえらせて敗戦後の日本の復興を支えたのだといいます。
その修繕の技術も傑出したもので、工場には職人と呼べるプロ集団が多く在籍し、まるで動かなかったような車両が、何台も新品同様と呼べるまでに性能を回復させ、また元気に稼働したとのことです。
最盛期には約170人ほどの職人たちが汗水をたらして働き、橋本駅からは国鉄の引き込み線までが引かれていたといいます。
日本のモータリゼーション化は、相反する存在であった国鉄が支えていたといっても過言ではないようです。
昭和24年の国鉄創立にともない完全に国有化されて大変な賑わいをみせた橋本自動車工場ですが、日本のモータリゼーション化に伴って民間の修理工場が多く作られるようになると徐々にその役割を奪われるようになり、国鉄民営化の際は整理対象となって昭和59年にその歴史に幕を閉じました。
今となっては跡地は商業施設、警察署、郵便局などにとって代わり、その面影はまったくありませんが、今なお西橋本ほほえみ公園には「工機部跡の石碑」が残されて当時を偲ばせています。
いま、この地は駅前の一等地であり、多くの家族連れが公園で楽しそうに遊んでいる姿を目にします。
そして、その前の道にはたくさんの自動車たちが連なって信号待ちをしています。
その公園の片隅に残された物言わぬ車輪のモニュメントは、戦後日本の発展を支えた自動車修理工場や職人さんたちの姿が、かつて確かにここにあったことを僅かに教えてくれている貴重な生き証人なのです。