みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

愛車はヤマハのシグナスX。 原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。
風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。
※記事は基本的に毎日18時に更新です。

一人の僧と村人が開いた 水路のほとりの早苗地蔵尊(横浜市都筑区)

発展の著しい港北ニュータウン。

そんなところでも、まだまだ古き良き風情を残しているところは多いものです。

 

ここ都筑区折本町も、大きくて広い幹線道路の脇にショッピングセンターが軒を連ねているかと思いきや、少し路地に入ればどこかなつかしい光景の広がるところです。

 

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そんな折本の里を原付で走っていて、ふと路傍の地蔵堂に目が留まりました。

 

この地蔵堂は道より一段高いところにあって、堂内はよく掃除されて清潔に保たれています。

これは、地元の方々の間では「早苗地蔵尊」と呼ばれて親しまれています。

 

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堂内には、向かって左手に背の高い地蔵菩薩立像が、右手には背が低い代わりに立派な舟形光背を背負った地蔵菩薩立像がお立ちになっています。

 

僧の形をしたお姿のうえ、どちらも右手には清浄な音をもってすべての煩悩を取り除き、智慧を得させるという「錫杖」を、左手には意のままに願いを叶える力を持つとされる「如意宝珠」をお持ちになっており、典型的なお地蔵さまの姿と言えます。

 

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この2体のお地蔵さまが「早苗地蔵」と呼び親しまれていることは先にも書きましたが、その名前の由来が、また素晴らしいものです。

 

言い伝えによると、時は戦国時代初期の天文元年(1532年)にまで遡ります。

この年は分かりやすく言うと織田信長が生まれる2年前となります。

 

この頃、この辺りは織本村と呼ばれており、20戸前後の家々が建っていたそうです。

現在は工場地帯となっている字表耕地のあたりはもともと水がなく、作物が取れない荒れたところでした。

 

苦労して開墾した田畑も満足な実りをつけず、里人たちの暮らしは貧窮の極みだったといいます。

 

 

 

この頃、近くの堂ヶ坂の麓に小庵を結び、念仏修行に明け暮れていた了信上人という僧侶がいて、娘とともに細々と暮らしていました。

この了信上人は、村人たちの苦しみを見るに見かねて一念発起し、山を掘り割って北側の谷戸川の水を引いて田畑を潤そうと決心したのです。

 

しかし、一人で山に向かい、寝食を忘れて鍬を振るい続けた了信上人を手伝おうという村人は誰一人おりません。

村人たちは遠目から眺めては、なんと無謀なことを、と笑って見ているだけでしたが、そのようなことは気に留めない了信上人は一心不乱に鍬を振るい続けました。

 

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しばらくして、この了信上人の志に心動かされる村人も出てきます。

まずは、萬次郎がこれに加わりました。そうなると後は早いもので、我も我もと村人たちは集まって大変な賑わいとなり、村中から女子供たちまでが手伝いに駆けつけたほどでした。

 

やがて、この了信上人が一人で始めた水路開拓は村をあげての一大事業にまで成長し、ようやく翌春には五十間(90メートル)の規模を持つ灌漑水路が出来上がったのです。

 

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この水路によって村の田畑は潤い、多くの実りをもたらしては人々の暮らしは劇的に改善されました。

 

この一大事業から百余年が経過したころ、この偉業を忘れてはならぬと村人たちが集まって寄附をつのり、良信上人と15才であったその娘の姿を模した地蔵を立てて、毎年早苗を供えてねんごろに供養したのが、今なお残る早苗地蔵尊であるということです。

 

明治初期の地図を見てみましょう。

地図の中央を湾曲しながら東西に川が貫いています。

 

その中心のところ、南側に伸びていく一本の水路が描かれていますが、これが了信上人が開いた水路であるということで、その先は南側の水田にまで伸びていることから、明治初期には未だ現役だった様子が見て取れます。

 

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しかし、時代は下り、水田は開発されて埋められ住宅街へと変わりました。

 

用がなくなった水路はドブ川となり、昭和中期から始まったモータリゼーションの波に合わせるようにして埋め立てられ、道路に姿を変えていったのです。

 

村と真照寺を隔てていた水路に架けられていた橋は、今もなお道路を跨ぐ橋として、人々の暮らしに欠かせない橋となっています。

 

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いま、ひとりしずかに、かつて水路だったところを歩いていきますと、両側には見上げるばかりの擁壁が築かれています。

 

かつてここには丘があり、村人の苦悩を一心に背負った僧が念仏をとなえつつ一人で鍬を振るった姿がまぶたに蘇ってくるかのようで、やがて一人、また一人と集まっては山を切り開いてきた人々の不屈の掛け声がこだまして来るかのようです。

 

 

 

 

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