30年の昔に比べると、海老名市の発展の著しさは目を見張るばかりです。
駅前の田畑はすっかり開発され、町田や本厚木にならぶ都市化の波をすすむ海老名駅前から消防署の前を通り、中央農業高校へとむかっていく中新田境のあたりは、かつて「ごまんどう」という地名で呼ばれていました。
この「ごまんどう」、ふつうに漢字で書くと「護摩堂」ですが、古い文書には「湖満堂」や「胡満堂」と記した文献もあるといいます。
今となっては田んぼがどこまでも広がる、のどかな風景そのものですが、ここにも日蓮上人にまつわる不思議な伝説が残されているという事です。
今から750年のむかし、鎌倉時代のことです。
当時はこの近辺は広々とした湿地帯が広がり、大きな池の畔には一軒の粗末な堂宇がありました。
文永8年(1271年)6月、雨ごい勝負を巡って鎌倉のある伝統寺院と対立した日蓮上人は、その三か月後の9月に謀略によって捕縛されます。
9月12日の夕暮れどき、当時の刑事裁判を管轄する侍所の次官であった平頼綱がひきいる数百人の兵士によって、日蓮上人は暴行をうけたうえに龍の口の刑場へと引きずり出され、あわや処刑の刃が向けられたとき、江ノ島からの強烈な閃光に阻まれて日蓮上人は刑を免れます。
いわゆる「龍の口法難」です。
翌日、日蓮上人は現在の厚木市となる相模国依智の佐渡国守護代・本間六郎左衛門重連の館に護送され、佐渡流罪への道を歩むこととなります。
その途中の9月13日、馬に乗せられた日蓮上人がこの池のほとりを通りかかると、一夜のうちに池一面に季節外れの蓮の花が咲き乱れ、人々を驚かせたという事で、その時から小さな堂宇は「湖満堂」と呼ぶようになった、という言い伝えが残されています。
また、単にこの地の豪族が事あるごとに武運長久の護摩を焚いたので「護摩堂」である、という至極もっともな言い伝えもありますが、このようなところにも日蓮上人の不思議な遺徳が語り継がれていることが驚きです。
この他には、この「ごまんどう」に伝わる不思議な狐行者の伝説も残されており、そちらはまた次回に紹介させていただきたいと思います。
いま、750年の時の流れを通じ、この地にあった護摩堂も池もいつしか姿を消してしまい、ただ広い田畑のはるか彼方に、大山丹沢にしずみゆく夕陽を望む平和なところとなりました。
しかし、そう遠くない750年前のむかし、馬に乗せられてこの地を連れてゆかれる日蓮上人のお姿を遠くから見守る村人たちのまえに、日蓮上人が歩を進めるたびに次々と季節はずれの大蓮華の花が咲き誇っては役人や村人をおどろかせた昔日のことが思い出され、ここにも日蓮上人というお方の不思議な霊力に想いを馳せるのです。
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