発展の著しい海老名の街ですが、海老名駅の喧騒から離れると、そこには昔と変わらない農村風景が広がっています。
以前、日蓮上人の不思議な法力が伝わると紹介した、海老名市大谷の「ごまんどう」というところです。
日蓮上人の逸話は前回の記事を読んでいただくとして、今回はこの「ごまんどう」に伝わるもう一つの伝説、不思議な狐行者のお話を紹介したいと思います。
この「ごまんどう」、ふつうに漢字で書くと「護摩堂」ですが、古い文書には「湖満堂」や「胡満堂」と記した文献もあるといいます。
日蓮上人の伝説では、「湖満堂」が伝わっていますが、土地の豪族が護摩祈祷をしたことから「護摩堂」と呼ばれたのもしっくりくる由来です。
むかし、ここには小さな護摩堂があり、全身に白衣をまとった白髪頭の行者が住んでいたそうです。
この行者は、いつも2匹の狐を連れながら村人たちに祈祷を施しては難病から救っており、たいへんな信仰を受けていました。
これによって一命を救われた村人たちが飲食を奉納すると、行者は合掌礼拝して受け取り、必ず狐にも分け与えていたという事で、村人からは「狐行者」と呼ばれ親しまれていたそうです。
ある早春の日、近くの水田で田起こしをしていた年老いた百姓が、長年患ってきた手足の痛みに耐えられなくなり、田のあぜ道に横たわって休んでいた時の事です。
枯れ草を踏んで近づく足音が聞こえたと思うと、そこには狐行者が立っていました。
起き上がる事すらままならぬ老人は狐行者の手によって野良着を脱がされ、何やら自分の手足が柔らかい布に包まれているような感じがしたものの、もはや何の気力もない老人は、そのままされるがままの状態であったといいます。
「このまま休んでおれ。さすれば痛みは消えよう」と言い残したその声こそは確かに狐行者の声そのものに違いなく、自分の手足を温めていたのは供の狐だったのです。
不思議なことに、痛みが徐々に引いていくのが分かった老人はそのまま眠ってしまい、気が付いたころにはすっかり痛みも癒えていました。
心配して探しに来た家族に叩き起こされると、近くに生えているネコヤナギの若枝からむいた皮が幾重にも手足に巻き付けてあったといいます。
ネコヤナギはもともと解熱や鎮痛の妙薬として漢方医学では珍重されてきましたが、これによってネコヤナギの薬効を学んだ村人たちは、その後もなにかあればネコヤナギからはいできた皮を巻いて痛み止めにしたり、小枝を細かく刻んで風呂に入れて薬湯にしたりしたという事です。
しかし、それでも手に負えないような重い症状のときは狐行者の手を借りて治療をした、という事で、村に疫病が流行したさいには2匹の狐が家々に薬を運んで巡ったというから驚きです。
ある日、足の骨をひどく折ってしまった若者おりました。
もはや元のようには歩けまい、と諦めていましたが、それを見た狐行者がネコヤナギの枝を足に縛り付けてくれたので、すっかり治ったという話があります。
(これはネコヤナギではなくとも骨がつきそうですが)
この護摩堂の周りには当時からたくさんのネコヤナギが植えられており、村人たち枝を追っては挿木にして増やしていったので、令和の時代となった今でも海老名近辺にはネコヤナギの木をよく見るのだ、という言い伝えがあります。
かつて中新田、社家、中野など相模川沿いにあった集落では、1月14日になると団子をネコヤナギの枝にさして焼いて食べる習慣がありました。
これはただ手に入りやすいといっただけではなく、ネコヤナギのもつ不思議な薬効を体内に取り入れるべくして起こった風習だとされています。
また、海老名地域では、寿司のシャリのような小さな握り飯を作って病人に食べさせる風習がありました。
これをネコヤナギの細枝に刺して焼けば、風邪の特効薬として珍重されていたそうですから、ネコヤナギの薬としての効果もバカにできないものだなと思います。
いつしか医学も発達して、すっかり時代の波に取り残されたネコヤナギは誰も見向きもしなくなってしまったものの、今なお川べりに繁茂してたくましく生きながらえている姿を見ることができます。
いま、村人に親しまれた狐行者も供の狐も、その姿を見ることができなくなって久しいですが、このごまんどうの地には昔から変わらず大山の山並みを眺めることができ、その山あいに沈みゆく夕日の光が今日も人々が急ぐ家路への道を照らし続けているのです。
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