みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのJog・CE50。時速30キロで見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

今なお残るおかしくも悲しい狸菩薩の伝説(相模原市中央区)

相模原市の水郷田名という町の、久所部落のはずれに、急な崖道を下るつづら折りの坂道があり、地元では火の坂下とよばれており、その木々の茂るうっそうとした雰囲気と、絶え間なく流れる湧き水は狸が住みつくには格好な環境である。

 

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その坂を下りきると、せせらぎにかかる小橋があるのだが、その脇にぽっかりと口をあける洞窟があり、その中にはただ角石に「狸菩薩」と彫り込んだ簡素な石仏があるが、これこそが今なお伝説を残す狸菩薩の洞窟なのである。

 

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平成が終わりを迎える現代でもそうなのだが、この近辺は昔から大樹がうっそうと茂り、昼なお暗い淋しいところであった。

 

むかし、この坂の坂上にある一軒家に一人暮らしの老婆がいて、つつましい生活を送っていた。

 

やがて冬将軍も近づき日々寒くなっていく晩のこと、一匹の古狸がやってきては相手はかよわき老婆とばかりにあなどり、囲炉裏の脇に座り込んでは、のうのうと暖をとり居眠りをするようになった。

 

老婆も最初は黙って寝かしておいたが、悪びれもなく自慢の八畳敷=「袋」を広げては、だらしなく寝てばかりいるようになり、その図々しさは日増しに目に余るものになっていった。

 

この老婆も話し相手もおらぬ寂しい一人暮らしであるから、最初は見て見ぬ振りをして暖を取らせてやっていたが、狸が人前に出るには、人間の姿に化けて現れるのが当然であろうに、この古狸は狸の姿そのままで出てきたのである。

 

老婆は次第に、毎日礼も言わず、手土産のひとつもなく、一番良い席で大の字になっては寝てばかりいる狸がだんだん憎たらしくなってきた。

 

外は吹雪いて一段と冷え込むある日、いつもより多くの薪をくべていると、また古狸が悪びれもせずにやってきて、ますます横柄に老婆を一瞥すると、決まり切ったように八丈敷をいっぱいに広げて眠りだした。

 

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いよいよ老婆は堪忍袋の緒がきれ、そばにあった十能(スコップのようなもの)で真っ赤に燃えた炭火を一杯にすくうと、伸びきって広がった八畳敷に振りかけたからたまらない。

 

古狸は泣きわめき火だるまになりながら転がるようにして飛び出すやいなや、崖下へ転がり落ちて可哀想に焼け死んでしまったのである。

 

このような言われからこの坂には「火の坂」という字名がつき、哀れと思った村人たちは代々古狸の霊を弔ってきたのである。

 

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そうして月日がたった大正13年(1924年)の夏のこと。

火の坂の下にあった水車場に江成甚造という老人が住んでいたが、甚造には60になる「おもと」という女房がいた。

おもとが盆勘定の掛取りに行っての帰り道のこと、すっかり日は落ち暗くなった坂をひとりで下りていると、なんの前触れもなしに突如バッタリと倒れて気絶してしまったのである。

 

いくらの時が流れたか、気がついても頭はボンヤリとして足腰も立たず、大きな声で助けを求めても、もともと人口も少ない寒村の真夜中では誰も助けになどは来てはくれぬ。


しだいに、遠くには久所の花街の灯と、対岸の小沢の部落の街灯りがぼんやりと見えてくるや、暗闇に響くは狸か狐の足音ばかりという寂しさであった。

 

目の前の水車小屋まではいつくばるようにして帰ったが、その後も疲れはひどく立つ事も歩く事もままならず、医師に診てもらっても首をかしげるばかりである。

 

願うは神頼みとなり、ある妙法行者に祈祷をして貰うや、老婆は今までは打って変わって飛び起きるや、正座をして口をとがらせ言うではないか。

 

「わしはまごう事なき、火の坂の狸である。わしは未だに地獄のような業火にさいなまれ、一向に成仏できぬ。

いかにしてこの苦難を里の人間に知らせようとしたが、里の人間はわしのことなどすっかり忘れてしまったようで、誰も振り向いてはくれぬ。

 

祟りとばかりに源治には頭の悪い子を産ませ、作造の足の骨を折ってはみたが、誰もわしのせいなどとは考えもせぬ。

 

しかし、お前だけはわしの願いが届いたようじゃ、今こうして行者の力でもって、わしの願いを言えるようになった。

 

わしの願いは、火の坂の下に狸菩薩として、わしを祀ってくれ。さすれば、わしは成仏もできよう。そして、必ずや火の坂の山の守り神になろうぞ・・・」

 

皆の前でそう言うと、おもとはバッタリと倒れ込んだ。

村人たちは驚いてこのことを話し合い、その年の9月6日に、今の狸菩薩を建立したのである。

 

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その後、狸菩薩は大変な評判となり、特に近隣で花街から始まり、昭和30年代ごろまで青線地帯として栄えた久所花街の芸姐たちの信仰も篤く、火傷や腫れものをたちまち治す霊力は著しいとされ、戦争の頃には、いよいよ参詣者が多くなり提灯や飾りが街中を照らし屋台も出るなどたいへんな賑わいで、祠の前があまりに混雑し近隣の通行の支障になるとして、道端の岩へ洞窟を穿ち狸菩薩を納めたのだという。

そのころ、この近辺では久所花街の大鷲神社の酉の市と狸菩薩のお参りは、合わせて行うのが通例とされたほどだという。

 

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その頃には、参拝したらの他人の絵馬をどれか1枚持ち帰り、願いが成就するや自分の絵馬と合わせて二枚奉納することになっていたので、洞窟内は絵馬でいっぱいになっていたというが、現在ではその風習もすっかりすたれたのか、すでに絵馬を見る事はなく奉納されているのは感熱紙に印刷された電波な文章ばかりである。

 

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いま、この昼なお薄暗い寂しげな洞窟の前に立つとき、突然に焼け死ぬこととなった狸の哀れさと、一人この地で暮らしている老婆の寂しさ、そして多くの借金を背負いながら小さな狸菩薩へとささやかな願いを捧げる青線の女たちの姿が思い起こされるようで、ここに伝わるユーモラスな昔話の中にも生きて行くことへの厳しさと悲哀がそくそくと思いだされるのである。