横浜市営地下鉄の三ッ沢下町駅から駅前の大通りを反町駅方面へ向かい、ガーデン下という交差点から北側へと入っていくと、崖のふもとに小さな児童公園があるのが見えてくるが、その公園の脇に静かにたたずんでいるのが三ッ沢下町の愛染地蔵尊である。
このあたりは、かつて小川が流れていた。
みうけんも子供のころに自転車に乗り、遊びに来た記憶がある。現在ではその小川は埋め立てられて遊歩道になっており、その脇には僅かに橋の柱と擬宝珠だけが残されて往時を偲ぶことが出来るのである。
また、昭和30年ごろの地図には、しっかりと川が記載されているのが見て取れる。
平成初期の地図にも記載されているから、この頃までは川は何とか残されていたのだろう。こうして古地図を眺めるだけでも当時を思い起こしては、幼かったころの思い出がまざまざと蘇るのである。
当時は公園もなく、現在公園があるところは丘陵の突端であり、古墳か塚のようなものが地図に描かれて、そこに通じる獣道まで描かれているものの現在となっては完全に削り取られて、それが何であったのかを知る由もない。
もともと、この地蔵尊は江戸時代のものと推定され、このあたりは藍染の作業場があったことから藍染地蔵、それが転化して愛染地蔵尊となったのではないかと説明の看板には書かれている。
当初は首のない地蔵尊だったと書かれているのであるが、現在の地蔵尊はきちんと顔があるので後に修復されたものであろうか。
この地蔵尊も、受難の時期が続いたようである。
いつのころからか放置され、言い伝えによれば首までが取れた状態で発見されたものの横浜大空襲で焼かれるなどしたという。
その後、戦後復興の兆しが見えた頃に地元の染め物工場でお祀りしていたが、ようやく昭和44年(1969年)に地元の有志が集まって御尊体を現在地に復旧した、というのである。
今となっては染め物工場も姿を消し、ここに流れていた小川も埋め立てられて遊歩道となっているが、この地蔵尊だけは変わることなくこの地に立ち続けて、道行く人々の営みを静かに見守っているのである。
時はめまぐるしく移り変わり、時代も昭和、平成、令和と時の刻みを刻み続けてきているが、人々の幸福を願う心は変わることなく生き続け、その形が地蔵尊への一途な信仰となって、今なおこの地に生き続けているのである。
いま、この地には小さいながらも公園ができたことにより、常に楽しそうに遊ぶ子供たちの笑い声が絶えることはなく、子供が大好きであると言われている地蔵尊が静かにたたずみ、微笑みを浮かべているかのようである。