大雄山線の五百羅漢の駅前の県道720号線を南下すると、かつての小田原市消防署北分署だった建物が見えてきます。
現在は、この建物は小田原市水防倉庫として利用されていて、詳細な地図などにもあまり載っていない建物です。
この水防倉庫の右手の空き地は、現在は私有地であり駐車場として活用されています。
その駐車場の奥まったところ、大雄山線の線路に面した茂みの中にひっそりと小さな地蔵菩薩の立像が残されているのが見て取れるのです。
今となっては訪れる人もほとんどいないのでしょう、地蔵菩薩の立像は完全に雑草の茂みの中に隠れてしまっており、そのお顔には哀れなるかな蜘蛛の巣が張っていました。
この地蔵菩薩には詳しい由来を説明する看板などは一切ありません。
ただ、足元の台座には「身代わり地蔵尊」とのみ陰刻されています。そのお姿ひとつとっても、路傍に残された多くの他の地蔵尊と比べ、見るからに新しい年代のものである事がわかります。
史料によれば、この地蔵尊こそが、かつての戦争の悲劇を今に伝える「多古の身代わり地蔵尊」なのだといいます。
かつて、この辺りには湯浅蓄電池の小田原工場がありました。
日本海軍の指定工場として、バッテリーの製造を担っていたため、たびたび空襲の目標となった場所です。
小田原空襲は、大別して昭和20年7月17日、8月3日、5日、7日、13日、15日の空襲が記録されていますが、終戦の2日前である昭和20年(1945年)8月13日の空襲は朝の出勤時間帯にも重なりました。
市内にけたたましく響く空襲警報を合図に、出勤中だった市民たちは一斉に防空壕へ避難します。
この時の米軍機の狙いは、この湯浅蓄電池小田原工場と富士写真フイルム小田原工場などであったとされています。
しかし、戦争にはまったく関わりのない新玉国民学校(後の小田原市立新玉小学校)なども艦載機の爆撃を受け、校舎が倒壊して教員1名と用務員2名が犠牲になった、など痛ましい記録が残されています。
この8月13日、空襲警報を聞いた多古地区の住民は、ここの切通しに掘られていた横穴式の防空壕に避難していました。
しかし、その防空壕に爆弾が直撃、むごいことに天井が落ちてしまい13人が生き埋めのまま犠牲となったのです。
終戦後に時は流れ、昭和44年(1969年)に近くで「いいちみそ」のブランドで味噌を製造販売する加藤兵太郎商店の五代目の妻であった加藤文子さんによって、かつて防空壕があった場所に犠牲者を弔うべく「身代わり地蔵尊」が建立されました。
これが、今なお残る「多古の身代わり地蔵尊」なのです。
いま、この地には訪れる人もなく、やぶ蚊の飛び交う茂みの中にひっそりと地蔵尊が立ち、時折背後を通り過ぎる電車の平和な揺れだけが、この地蔵尊を慰めているかのようです。
戦後75年を迎えようとするいま、このような一見して「普通の住宅街」でも確実に戦禍の波が押し寄せ、悲しいかな無辜の命が奪われてきた歴史は間違いなくありました。
そんな悲しい歴史を思い起こすたびに、人の歴史は争いの歴史であるという無情な現実が思い起こされ、そっと手を合わせて犠牲者の冥福を祈ったのです。